日本語が亡びるとき 

これは水村美苗という作家の長編評論で、「英語の世紀の中で」という副題がついています。非常に読み応えがある本でした。斜め読みして理解できる内容ではありませんが、バイリンガル教育に興味がある人にとっては、一読する価値はある本ではないでしょうか。

私は去年初めて「国際結婚一年生」という日本語の本を出しましたが、何人もの人から「英語版はないのか」と聞かれました。国際結婚のカップルの片方は英語を読む人である可能性が高いのだし、英語で書かれていれば、もっと多くの人の役に立つだろう、とも。確かにそのとおりです。この本を読みながら「英語で書かれていれば、読める可能性のある人は比較にならないほど増える」と当たり前のことに改めて気づかされました。

著者は第三章「地球のあちこちで<外の言葉>で書いていた人々」で、このように言っています。

くり返すが、学問とは、なるべく多くの人に向かって、自分が書いた言葉が果たして<読まれるべき言葉>であるかどうかを問い、そうすることによって、人類の叡智を蓄積していくものである。学問とは<読まれるべき言葉>の連鎖にほかならず、その本質において<普遍語>でなされる必然がある。(P144)

非西洋語圏の学者は・・(中略)・・・いったい何語で書いたらよいのか。
かれらは<自分たちの言葉>で書いてそのまま<読まれるべき言葉>の連鎖に入るわけにはいかない。かれらの使った言葉を読める学者は世界に稀である。かれらが書いたものが<三大国語>に翻訳される可能性は非常に低い。さらに、たとえもしかれらが書いたものが<三大国語>に翻訳されたとしても、非西洋語が西洋語に翻訳されたときに失われるものは大きい。西洋語を<母語>としない学者が<自分たちの言葉>で書いて、<読まれるべき言葉>の連鎖に入るためには、<外の言葉>で読むだけでなく<外の言葉>で書くよりほかにない。そのような学者の<世界>への参入は、学問とは、その本質において<普遍語>という<外の言葉>でなされる必然があるという、学問の本然を、今ふたたび、白日のもとに晒すものである。(P147)

ここでいう<普遍語>とは、世界的に通用する言葉、つまり今の時代では英語ということになります。この部分を読んだ時、村上春樹の小説について考えました。彼の小説の多くは英語に翻訳されています。村上春樹のファンは世界中にいますし、日本語以外では英語版の読者が多いのでしょう。でも翻訳という過程では「何かが失われる」ことはほぼ避けられません。先日、コスタメサの紀伊国屋書店で、村上春樹の英語翻訳本についての分厚い本を見かけ、つい手にとってみたところ、主な英語版の「致命的な」誤訳あるいは意訳について詳細なリストが挙げられていました。実際のところ、村上春樹が英語で書く日を待ち望んでいる英語読者のファンもいるのではないでしょうか。私の好きなアメリカ人のブロガークリス・ギレボーに会って”1Q84″について話したとき、「そんなに長い小説なら英語になることは不可能だろう」と彼が言っていましたが、やはり”1Q84″もそのまま英語にするにはあまりに長すぎるので、1巻から3巻までまとめて1000ページほどになるという情報も見かけました。

著者は第6章で「今、漱石ほどの人材が、わざわざ日本語で小説なんぞを書こうとするであろうか。(中略)たぶん書かないような気がする」、また「言葉の力だけは、グローバルなものと無縁でしかありえない」からこそ、日本人で英語でも書ける人は(<叡智を求める人>であればなおさら)英語で書くようになっていく、という危機感を抱いています。日本人が日本語で書かなくなれば、日本語は言葉として亡びるしかないので、そうした事態を防ぐために、第7章「英語教育と日本語教育」において、「学校教育で何を目指すべきか」という論理が展開されていきます。

私自身は、たとえば村上春樹は、いくら英語を不自由なく書くことができたとしても、日本語でも書き続けるだろうという気がしています。すべての人が<読まれるべき言葉>の連鎖に入りたいとは思わないだろうからです。人には誰でも、自分の経験や能力のうち最も人様の役に立つことのできる分野、そして誰のためにそれを行いたいかという対象があります。その意味で「日本語しか読むことのできない人」のために、日本語で書き続ける人はいなくならないでしょう。そうした形で書かれたものが、著者のいうところの普遍的な学問のレベルに達するかどうか、それは書き手以外の人々、あるいは後世の人が判断することです。多くの人が自分の自由意志で好きな分野に取り組み、好きな言葉で書いていった結果として、日本語が今の「地位」を失い、<叡智を求める人>が読み書きできなくなる言葉に「なり下がった」として、人類が文化的に貧しくなるのだろうか?もしそうなるとしても、それはそんなによくないことなのだろうか?という気がしています。長くなりましたので、次回で「国際結婚家庭の選択」についてさらに考えてみます。

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