クリス・ギレボーの新作”$100 Startup”ブック・ツアー

以前こちらのブログ記事でもご紹介した「世界征服のためのやさしい手引き」を書いたクリス・ギレボーが、今月2冊目の本を出版しました。“$100 Startup”と題されたこちらの本は発売日にアマゾン総合ランキングで4位になる売れ行き。その内容もさることながら、そのための「仕掛け」の緻密さには今回も本当に驚かされました。この本は「自分でビジネスを始めたいんだけど・・・」という人に向けて書かれたものです。ビジネスを始めるためには多額の資金が必要なので、場合によっては借金をして・・・というイメージを持っている人もいるかもしれませんが、この本では少ない元手で、クリスの言うところの”マイクロビジネス”つまり多くの場合ひとりで、あるいは友人やパートナーと数人での小さなビジネスを始め、成功していった事例が豊富に紹介されています。また、これらのケース・スタディを分析し、自らの経験ももとに得られた「ビジネスを始めるためのステップ」が書かれています。発売日当日、アマゾンでは100を越えるレビューが掲載されました。

そして前回同様、発売日にブック・ツアーがスタート。今回は全米すべての州ではなく20あまりの都市ですが、今年の後半には世界7大陸を訪れるツアーも計画中とのことです。ここカリフォルニア州には来週やってくる予定で、サンフランシスコでは29日、サンタ・クルーズに30日、ロサンゼルスに31日に、それぞれの会場でMeetupが行われる日程になっています。詳しくはこちらのサイトの”Tour”のページをご覧ください。またこのサイトの”Resources”のページからは、シンプルなビジネスプランのためのフォームや、商品発売の際のチェックリストなどがダウンロードできるようになっています。

ブック・ツアーのMeetupはクリスの活動をフォローしている人々によってセッティングが行われます。例えば、前回のブック・ツアーのアトランタ会場はこんな感じでした。また、今回もノースキャロライナで行われた会場に私の友人が行ったのですが、集まった人々は誰も自分のビジネスやアイディアを攻撃的に売り込むような感じではなく、オープンで有益なディスカッションが繰り広げられたとのことで、クリス本人のように謙虚で気持ちのいい人々が引き寄せられてくるのだろう・・・と感想を教えてくれました。そう、ブック・ツアーの魅力は著者に会えるだけでなく、その場に集まる人々との交流にもあるのです。いずれ日本にも来たいと言っているクリス。実現することを楽しみにしています。

ダライ・ラマ14世、サンディエゴで講演

チベット仏教の最高指導者であるダライ・ラマ14世が、サンディエゴ州立大学、カリフォルニア大学サンディエゴ校、サンディエゴ大学の3大学で講演を行うためサンディエゴを訪れました。三男が生まれた日に発売になったチケットを友人の協力で入手し、心待ちにしていた日がついにやってきました。ひょんな縁から親子コミュニケーションコースの大先輩であり、私のメンター、そして大切な友人でもあるSusie Waltonと一緒に行くことになったのも必然だったのでしょう。今朝、サンディエゴ州立大学の会場で会った彼女は「きのうは楽しみで眠れなかったわよ!」と興奮気味。以前にも2度、講演に行ったことがあるということでしたが、ダライ・ラマが会場に姿を現したときには涙を流していました。

バスケットボールなどに使われるアリーナでは、中心に設置されたステージを観客席がぐるっと取り囲むような形で、私たちの席はステージの後ろからみるような形でした。講演中は主に天井に設置されたスクリーンに映る姿を見ていましたが、話の内容もさることながら、本人の持つオーラのような、力強い、それでいて攻撃的ではない空気が感じられました。話題は宗教のこと、許しのこと、親として子どもにするべきこと、最大限の幸せを感じる人生を送るには・・・・など多岐にわたり、講演時間の45分ほどはあっという間に過ぎました。

その後30分ほど質疑応答の時間となり、あらかじめ寄せられた質問を担当者が読みそれに答える形ですすめられました。ダライ・ラマの講演を聴くというのは初めての体験でしたが、77歳とは思えないパワー。そして意外にもとてもユーモアに溢れ冗談を交えながらの講演で、会場からはしばしば笑い声が聞こえました。アジア人らしいアクセントのある英語で、ときどき通訳者に「英語でなんと言うのか」と尋ねながらの話だったのですが、私が理解した限りでいくつか印象に残ったことをあげておきます。

・「自分」と「他人」の境目は(本来は)ない。すべては”Oneness”つまりつながっている。

・物理的な快適さと精神的な安らぎという二つの価値観がある。物理的な快適さはお金で買えるものだが、それでは精神的な安らぎは得られない。また、例えば病気などで身体的にはつらくても、精神面での安らぎや強さがあれば乗り越えられる。

・親(特に父親)は子どもともっと時間を過ごすべきだ。そして子どもに対して”Maximum Affection”(最大限の愛情)を注いでやることが、Compassionをもつ世代を育てることになる。また子どもには出来るだけホリスティックな体験をさせてやることが望ましい。

・たとえ「敵」と思う人がいたとしても、その相手自身が、自らのネガティブな行いの結果起こることを体験することになる。許しとはその相手への気遣いから起こる感情である。

・仏教の教えは「信仰心から教えを受け入れなさい」というものではなく「自ら体験し実験することで教えを受け入れなさい」というもの。その意味では、ブッダは科学者でもあると言えると思う。

・最大限、幸福な人生を送るためには「心の平安」が欠かせない。一人ひとりが幸福な人生、幸福な家族を築き、そして社会に貢献することで、よりよい未来が築かれる。そして正直に生きること。

・私の二つの目の片方は世界をみている。そして片方の目は来世を見ている。

質問のひとつに「あなたは世界中の人をインスパイアしていますが、あなた自身がもっとも影響を受けた人は誰ですか」というものがありました。これには「私は仏教徒なので、偏見があると思いますが・・・」と前置きし、「ブッダです」。これには会場も大爆笑。その後、ガンジー、マザー・テレサなどの名前を挙げていました。また、最後のほうで、日本の地震と津波のことにも触れ、実際に被災地を訪れたことを話していました。そして「日本は第二次大戦で何もなくなったところから立ち上がった。だから、また再建できると信じている」とも。講演を終えたあと会場を埋め尽くした観客から拍手喝采を受けながらアリーナをあとにしました。講演はウェブカメラで放映され、編集版がローカルテレビでも放映されるとのことです(スケジュールはこちらをご覧ください)。帰りの車のなかで、子どもたちに最大限の愛情を注いでいるかな・・・と自問自答。それを可能にするためにはやはり自分自身のケアをすること。時間に追われる毎日なので難しく感じられることは確かですが、家族みんなで仲良くハッピーな生活を送るためにもそれはとても大切なことなのだと改めて感じました。質問の中にも「自分はちっぽけな存在。こんな私に何ができますか?」というものがありましたが、すべては自分から始まるのです。自分自身を幸福にし、家族の幸せに貢献し、それがコミュニティや国、世代・・・につながっていく。そんな思いにさせられたダライ・ラマの講演でした。

夫婦、この不思議な関係

曽野綾子の「夫婦、この不思議な関係」を読みました。国際結婚成功コンサルタントとしてカップルのご相談を受ける私にとって、結婚そして夫婦についての著者の視点は大変興味深いものがありました。1931年生まれの著者が結婚した当時と現在の状況はだいぶ変わっているものの、「結婚とは」「夫婦とは」ということについて示唆に富むエッセー集ではないかと感じます。
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特に私自身の結婚生活を考えたとき「これは共通するものがある」と思ったのは、曽野綾子が表現するところの夫の「冷たさ」についてです。再三「夫は冷たい」という表現で描かれている夫の特性というのは、「彼は私に何ら『変われ』という期待をしていない」ということでした。妻に「もっと~だったらいいのに」とか「~をしてくれないと困る」というような期待を一切しないということ。私の夫もこの点は非常に似ています。よく言えば自立しており他人に自分を幸せにしてもらおうとは考えていない。でもこの「個人主義」は、裏を返せば自分が変わることで相手が幸せになるとは信じていないとも言えるのでしょうか。曽野綾子の父親は、彼女の母親に対して「変われ」という期待があったために、母親にとっては気の休まらない結婚生活が長らく続いたとのことでした(後年、彼女の両親は離婚を選択)。この両親の結婚生活について、曽野綾子は「父親は心が温かかったからこそ母親を躾けたいと思っていたようだ」という表現をしています。「心が温かいからこそ他人に期待をしてしまう」というのも一理あるのかとも思いますが、そもそもは赤の他人であるパートナーと共同生活を送るのであれば、心が温かろうが冷たかろうが、常に自分に対して「変われ、今のままのあなたではいけない」というメッセージを受け取り続けるよりは、そのままの自分を受け入れてくれる人のほうが穏やかな気持ちで毎日を楽しく過ごせるだろう・・・・と感じます。
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もちろん細かいことを言えば不平不満がまったくない夫婦関係なんていうものは存在しないのではと思いますが、結婚するまでの間に長い時間をかけて大人になってきている人間同士、根本の部分では「そのままを認め合う」ということがなければ、やはり楽しい毎日を送ることは難しくなるでしょう。自分がどの道を選択するにしても、結婚について思うところのある人は何らかのヒントを得られる本ではないでしょうか。

尾びれを無くしたイルカ”Winter”の物語

先日家族で”Dolphin Tale”という映画を見てきました。傷ついたイルカが尻尾切断という現実に直面、人間が人工尾びれを開発してこのイルカを救い、今では戦争や病気などで腕や足を無くした人々に勇気を与える存在となっているという、実際に起こった出来事をベースにした物語です。

映画のあと調べてみたところ、ストーリーの多くは映画用にドラマチックな効果を狙って作られたフィクションなので、”inspired by true story”という表現がふさわしいということでしたが、何と言っても実際に尾びれを無くしたWinterというイルカが映画でも自分自身を演じていて、そのことだけでもこの映画にリアリティを持たせています。

普段シーワールドでイルカを見慣れている子どもたちも、2時間近い長い映画に飽きることなく見入っていました。映画の主人公である11歳の少年がこのイルカと心を通わせ、一緒に泳ぐシーンなどは、改めてイルカという動物の知能の高さや美しさにはっとさせられました。また、映画では戦時下のアメリカらしく、この主人公のいとこが戦争で負傷し足に障害を負うという設定になっており、彼がイルカとの交流を通してショックから立ち直り前向きに生きていくというシーンもありました。この少年やいとこの存在などはフィクションですが、実際にイルカのWinterのもとには足や腕を無くした人々が常に訪れています。

映画の最後のクレジットが流れるところでは、実際のイルカを救出した場面や、人工尾びれを開発して試しているシーンなどの記録がドキュメンタリー風に挿入されていました。イルカを傷つけたのも人間なら、それを救うのも人間。また、今ではこの”WinterGel”と呼ばれる、Winterのために開発された物質が人間の義足にも応用されているそうです。

このイルカのいるプールにはウェブカメラが取り付けられていて、Clearwater Marine Aquariumのサイトから見ることができます。記事を書くにあたり調べたところ、日本でも実は同じような出来事があったことを知りました。ブリヂストンのサイトでは「イルカ人工尾びれプロジェクト」について紹介されています。

ストーリーや演技をというよりは、イルカのWinterを見に行く映画だな・・と感じました。家族連れには特にお勧めです。

死に直面するという経験

世界を変えたスティーブ・ジョブズが癌のため亡くなってからもうすぐ一週間になります。発明王エジソンなどと同じように「歴史上の人物」として名を残すことになった人ですが、その日以来多くの人が、彼が2005年に行ったスタンフォード大学でのスピーチを改めてシェアしていました。このブログでも「目標を持たない生き方」という記事でこのスピーチに言及し動画を載せたところでした。

彼の人生哲学を形作った数々の要素のひとつとして、禅の考え方が深い影響を与えていることは良く知られていますが、この「死に直面した」という経験もそのひとつでしょう。かなりの確率で助からないから死を覚悟しなさいと言われ、人生の棚卸しをして「本当に大切なことは何か」ということがいやでも明らかになった・・・という経験。先日、夫と観にいった映画「50/50」もこのテーマを扱っていました。タイトルの”50/50”は、フィフティ・フィフティ、つまり「五分五分」という意味で、主人公が宣告された癌の助かる見込みを意味しています。

映画はシリアスなドラマとコメディの要素が絡み合い、深刻なテーマながら悲壮になりすぎず、ストーリーが淡々と展開されていきました。実はこの映画は主人公の親友役をした俳優(Seth Rogen)の実際の友人が25歳で癌になったという経験をもとに作られたのです。

感想を書くとネタばれになってしまうかもしれないので、映画についてこれ以上は書きませんが、多くの人は、病気になったり、身近な人の死を体験することで初めて(あるいは改めて)日常のありがたさを実感します。そして「この生は限られた時間である」ということも。実際に自分でこの死に直面する体験をしない(できない)としても、こういった映画を見たり、体験者の本を読んだり、現実世界のニュースによって、その人の生き様や人生哲学に触れることはできます。時には、今の時間がいつまでも続くかのような錯覚を「そうではない」と気づかせてくれる疑似体験をすることも、スティーブ・ジョブズの言った「自分はいつか死ぬことを忘れずにいる」ために誰もが出来ることではないでしょうか。

日本語はいきのびるか

先日の記事でご紹介した「日本語が亡びるとき」の最終章で、著者の水村美苗は、学校教育で目指すべきところは「国民全員がバイリンガルになること」ではなく「国民の一部がバイリンガルになること」であると主張しています。「国民総バイリンガル社会」を追い求めることにより日本の言語状況はより悪くなるだけで、いいことはひとつもない、なぜなら、目指すべきなのは国民全員が「外国人に道を訊かれて英語で答えられる」程度の英語力があることではなく、「世界に向かって、一人の日本人として、英語で意味のある発言ができる人材」だから・・・と言うことです。

著者はさらに「教育とは最終的には時間とエネルギーの配分でしかない」「英語教育に時間とエネルギーをかければかけるほど、何かをおろそかにせねばならない」と主張し、国民全員が「英語が話せなければ」という強迫観念をもつことにより、日本語教育がおろそかになる(既になっている)という現状について危機感を募らせています。

アメリカ人の夫と国際結婚をし、現在のところアメリカで二人の息子に日本語と英語のバイリンガル教育を試みる立場の私にとって、この「英語か日本語か」という問題は、日本在住の日本人が考えるのとはまた異なる重みがあります。また、帰国子女でなく20代前半から本格的に英語を話し始めた私は「英語は決してやさしくはないけれども、大人になってからでも学ぶことできる言語」という認識をもっています。英語との比較において、やはり日本語は完璧にマスターするのはとても難しい言語ですし、敬語を含めた日本語が使いこなせることは日本文化を理解していることでもあります。この本と同時並行的に「日本語は生き延びるか」という本も読みましたが、やはり「日本人であることに自信がない人は外国語できちんと自己主張ができない」そして「語るべき内容がない人は日本語でもまともな話ができない」という一節が心に残りました。

現時点では子どもたちの母国語は英語になりつつあります。国際結婚の家庭において、両方の言語を同じ時期に同じくらい発達させるというのはバイリンガル教育の理想的な姿なのかもしれませんが、実際にやってみると、それほど簡単なことではありません。現時点では「やはり軸になる言葉は必要なのではないか?」と私は考えています。外国語の力は母国語の力を超えることはないのだとしたら、思考や発話において常に使用される、圧倒的に得意な言葉があることは自信につながりますし、そこから第2の言葉を学ぶ下地にもなるでしょう。ある程度大人になってから英語話者になった私は人様から英語を褒めていただくこともあるのですが、小学校から高校を卒業するまで一番の得意科目は現代文、古文、漢文、すべてを含めた国語一般だったことも考えると、言葉や言語そのものへの興味が基礎にあったことは確かなようです。また、日常会話レベルをマスターするためならともかく、語彙を増やしたり、書く力をつけたりするためには、その言語で読むことは必須なのですが、そもそも日本語で本を読むのが好きでなかったら、私にとって外国語である英語で何かを読みたいとは思わなかったでしょう。

日本語の危機を訴える2冊の本を読んで改めて感じたことは、子どもたちには可能な限り日本語でも英語でも本をたくさん読ませることが大切だということでした。私も小さいころには親にたくさん絵本を読んでもらったし、自分で本が読めるようになったら、「まだ読んでいない本」が常にまわりにあるような環境を作ってもらったという記憶があります。特に男の子は女の子に比べて脳のつくりから言語発達が遅い傾向があるので、「本がそこらじゅうにある」という環境を作ることはとても大切だそうです。この話を聞いてから、我が家では家の中でも本は一箇所に片付けず家のあちこちに積み上げておいたり、車の中にも本を置いておくようになりました。

5月に日本に行った際、書店でみかけた「日本人の知らない日本語」というコミック本が大変売れていることに、ある種の感銘を受けました。売れているのはコミック本だからという要素もあるでしょうが、内容に興味をもっている人が多いということでもあります。私も読んでみましたが、確かに知らないことがたくさん書かれていて、やはり日本語は奥が深いのだと実感しました。子どもたちが将来、日本語の美しさや貴重さに気がつき、世界の言語の中でも貴重で複雑な日本語を自分たちが操れることにプライドを見出せるようになるよう、そのための刺激を、日本人の親として与え続けていきたいという思いを新たにさせられました。

日本語が亡びるとき 

これは水村美苗という作家の長編評論で、「英語の世紀の中で」という副題がついています。非常に読み応えがある本でした。斜め読みして理解できる内容ではありませんが、バイリンガル教育に興味がある人にとっては、一読する価値はある本ではないでしょうか。

私は去年初めて「国際結婚一年生」という日本語の本を出しましたが、何人もの人から「英語版はないのか」と聞かれました。国際結婚のカップルの片方は英語を読む人である可能性が高いのだし、英語で書かれていれば、もっと多くの人の役に立つだろう、とも。確かにそのとおりです。この本を読みながら「英語で書かれていれば、読める可能性のある人は比較にならないほど増える」と当たり前のことに改めて気づかされました。

著者は第三章「地球のあちこちで<外の言葉>で書いていた人々」で、このように言っています。

くり返すが、学問とは、なるべく多くの人に向かって、自分が書いた言葉が果たして<読まれるべき言葉>であるかどうかを問い、そうすることによって、人類の叡智を蓄積していくものである。学問とは<読まれるべき言葉>の連鎖にほかならず、その本質において<普遍語>でなされる必然がある。(P144)

非西洋語圏の学者は・・(中略)・・・いったい何語で書いたらよいのか。
かれらは<自分たちの言葉>で書いてそのまま<読まれるべき言葉>の連鎖に入るわけにはいかない。かれらの使った言葉を読める学者は世界に稀である。かれらが書いたものが<三大国語>に翻訳される可能性は非常に低い。さらに、たとえもしかれらが書いたものが<三大国語>に翻訳されたとしても、非西洋語が西洋語に翻訳されたときに失われるものは大きい。西洋語を<母語>としない学者が<自分たちの言葉>で書いて、<読まれるべき言葉>の連鎖に入るためには、<外の言葉>で読むだけでなく<外の言葉>で書くよりほかにない。そのような学者の<世界>への参入は、学問とは、その本質において<普遍語>という<外の言葉>でなされる必然があるという、学問の本然を、今ふたたび、白日のもとに晒すものである。(P147)

ここでいう<普遍語>とは、世界的に通用する言葉、つまり今の時代では英語ということになります。この部分を読んだ時、村上春樹の小説について考えました。彼の小説の多くは英語に翻訳されています。村上春樹のファンは世界中にいますし、日本語以外では英語版の読者が多いのでしょう。でも翻訳という過程では「何かが失われる」ことはほぼ避けられません。先日、コスタメサの紀伊国屋書店で、村上春樹の英語翻訳本についての分厚い本を見かけ、つい手にとってみたところ、主な英語版の「致命的な」誤訳あるいは意訳について詳細なリストが挙げられていました。実際のところ、村上春樹が英語で書く日を待ち望んでいる英語読者のファンもいるのではないでしょうか。私の好きなアメリカ人のブロガークリス・ギレボーに会って”1Q84″について話したとき、「そんなに長い小説なら英語になることは不可能だろう」と彼が言っていましたが、やはり”1Q84″もそのまま英語にするにはあまりに長すぎるので、1巻から3巻までまとめて1000ページほどになるという情報も見かけました。

著者は第6章で「今、漱石ほどの人材が、わざわざ日本語で小説なんぞを書こうとするであろうか。(中略)たぶん書かないような気がする」、また「言葉の力だけは、グローバルなものと無縁でしかありえない」からこそ、日本人で英語でも書ける人は(<叡智を求める人>であればなおさら)英語で書くようになっていく、という危機感を抱いています。日本人が日本語で書かなくなれば、日本語は言葉として亡びるしかないので、そうした事態を防ぐために、第7章「英語教育と日本語教育」において、「学校教育で何を目指すべきか」という論理が展開されていきます。

私自身は、たとえば村上春樹は、いくら英語を不自由なく書くことができたとしても、日本語でも書き続けるだろうという気がしています。すべての人が<読まれるべき言葉>の連鎖に入りたいとは思わないだろうからです。人には誰でも、自分の経験や能力のうち最も人様の役に立つことのできる分野、そして誰のためにそれを行いたいかという対象があります。その意味で「日本語しか読むことのできない人」のために、日本語で書き続ける人はいなくならないでしょう。そうした形で書かれたものが、著者のいうところの普遍的な学問のレベルに達するかどうか、それは書き手以外の人々、あるいは後世の人が判断することです。多くの人が自分の自由意志で好きな分野に取り組み、好きな言葉で書いていった結果として、日本語が今の「地位」を失い、<叡智を求める人>が読み書きできなくなる言葉に「なり下がった」として、人類が文化的に貧しくなるのだろうか?もしそうなるとしても、それはそんなによくないことなのだろうか?という気がしています。長くなりましたので、次回で「国際結婚家庭の選択」についてさらに考えてみます。

比べないこと

4月ももう少しで終わろうとしています。中旬に体調を崩し、回復に向かっている最中です。ちょうど、親しい友人も調子を崩していたことがあり、彼女に「自分に優しくして」などと助言をしていたときでもありました。「自分に優しく」とは具体的にどういうことでしょうか?

「人と比べることは意味がない」というような言葉を時々耳にします。比べる対象は、目標としているような人であったり、調子のいいときの自分のときもあるでしょう。震災があった直後、多くの人は無意識のうちに、被災者と自分の置かれた状況を比較して「命があるだけでもありがたい」「愛する人が生きているだけでも・・」ということを思ったでしょう。これはごく自然なことです。でも中には、自分が直接被災したわけでもないのに、落ち込んでしまった人も少なからずいたと思います。

2月末に、近所のRock Churchというキリスト教の教会に、ニック・ボイジッチ(Nick Vujicic)という人が、その教会の選任牧師の代わりにミサを執り行うためにやって来ました。ニック・ボイジッチさんは、自らもロング・ビーチというロサンゼルス近くにある教会の牧師です。生まれつき両手両足がない彼は、青年時代にはやはり自殺も考えたほど苦しみましたが、キリスト教のメッセージに目覚め、今では自分の教会を持っています。友人から彼がサンディエゴにやってくると聞いて、家族でこの教会に行きました(大規模な教会で、施設も充実しており、ミサの間子どもたちを預かってくれるのです)。実際にライブで彼のスピーチを見たとき、ニックさんはエネルギーに満ち溢れていました。また、自分に両手両足がないことをネタにしたジョークも連発していました。何と、飛行機の機内で荷物を置く棚に隠れて人をびっくりさせるといういたずらもしたことがあるそうです。これには3階建ての会場満杯の聴衆も大爆笑でした。

ニックさんは、人と比べないことについて語っていました。「僕に会った人は、僕に両手両足がないのを見てみんなびっくりする。そして『ああ、君は大変なんだな。(自分は五体満足なんだから)もう月曜日の朝に仕事に行きたくないなんて文句を言うのはやめるよ』なんてことを言う。でも、僕は言うんだ。『だって、月曜日だろ。無理ないさ』って。」人はみんなそれぞれの現実で生きているわけなので、自分よりももっと大変な状況にある人がいるからといって、自分の悩みがなくなるわけではない、ということを彼は言っていました。自分が不幸でどうしようもないと感じられる時に、大局を見ればそこまで悲観したものでもないよね、とか、もっと大変な人もいるんだから、こんなことで弱音を吐いては・・・という考え方は「正論」だし、それでエネルギーが沸いてくる時もあるでしょう。でも、「もっと大変な人がこんなに頑張っているのに」と比べることによって、さらに「だめな自分」と言う風に落ち込んでしまう時もあるのです。今回気がついたのは、素晴らしいエネルギーを放っている人に触れて元気がでるのか、あるいは余計に落ち込んでしまうのかという違いが、自分の調子のバロメーターになっているということでした。良質の刺激を受けても元気が回復しないどころか、比較してしまってさらに気分が落ちこんでいるときは、もう少し深い癒しや、長い休養期間が必要なのかもしれない、と。そしてそんな時には「人と比べないこと」こそが自分に優しくすることであり、回復の第一歩なのかもしれません。哲学者プラトンもこう言っています。

“Be kind, for everyone you meet is fighting a hard battle.” (優しくしなさい。あなたが会う人はみんな、厳しい闘いをしているのだから。)

「あなたが会う人」の中に、自分自身も含まれています。人と比べることで自分をいじめないように。時には病気になることも自分に優しくしなさいというサインなのかもしれません。

Happiness = Inside Job

フロリダに往復する飛行機の中で、以前から色々な人が推薦していた“Bird by Bird”という本を読みました。”Some Instructions on Writing and Life”という副題のついているこの本はAnne Lamottという作家の書いた「書くこと、そして人生についての指南書」です。とても面白く、行きと帰りの飛行機で読みきりました。

この本は、目次を見る限りでは”Writing”、つまり書くことのプロセスについて、彼女が教える「小説の書き方クラス」の流れに沿って説明されているかのように見えますが、小説の書き方のテクニックというよりは心構えに重きがおかれています。例えば、「出来の悪い草案」についての章では、自分の頭の中で聞こえてくる「こんなのは読む価値もないものだ」「自分には才能がない」「時間の無駄だ・・・」というような声をどのようにシャットアウトして、毎日のように机に向かってとにかく文章を紙に書いていく(コンピュータに打っていく)ことが大切か・・ということが書かれています。また、彼女のクラスには、当然ながら「いつか出版したい」と思う人たちが集まってくるわけですが、正直なアドバイスをしたときの彼らの反応や、小説化志望の人たちがするべきこと(例えば、作品を批評しあえる友達やグループを作るなど)についても書かれています。

彼女の本の中では”Operating Instructions”だけが日本語に訳されているようです。こちらの本については「これは育児書ではなく、赤ちゃんが生まれて大奮闘しているシングルマザーの日記です。ユーモアあふれ、突っ込みどころも多い楽しい本です。 自分の子供がまだ赤ちゃんのときに手にして読んだのですが、日常の大変さを笑い飛ばすことができました」というアマゾンのレビューがありました。”Bird by Bird”の本の最後のほうに、自分がそれまで書いてきた本のことについても言及があったのですが、個人的なこと(父親の死、親友の死、自分のシングルマザーとして赤ちゃんを育てた最初の一年)などをテーマにしながら、「でも同じようなことが起こっている人がいるかもしれない。そんな人たちが読んで、おかしくて笑えて勇気が出るような本があればと思った」という、彼女が書く動機に触れることができます。

中でも秀逸だと思った箇所は「出版」についてのくだりで、出版前の小説家志望者たちの「出版すれば人生がバラ色になる」という幻想を見事に打ち砕くような自らの経験が書かれています。そこで出てきたのが表題の言葉です。「クール・ランニング」というジャマイカのボブスレーチームがオリンピックに挑んだ映画の中でチームのコーチが言った “If you’re not enough before the gold medal, you won’t be enough with it” (金メダルをとる前に『自分は十分だ』と思えないのであれば、金メダルをとったってそう思えやしないよ) 」という台詞を引き合いに出し、「出版も然り。この台詞を切り取って机の前に貼っておくといい」と書いています。そして、”Being enough was going to have to be an inside job”である、と。“Inside Job”とは「中にいる人の仕事」という意味で、よく犯罪ドラマなどで使われる言葉ですが、ここの意味は「外からの評価とは無関係のところで、努力した自分の頑張りについて、あるいはその出来について、自分自身の満足感で心が満たされていないのであれば、たとえ金メダルや出版というゴールを達成したところでそれが変わることはない」というところでしょうか。

私たちもよく「○○さえあれば・・」「XXが△△でありさえすれば・・」、そうすればもっとハッピーになれるのにという思考に陥ることがあります。これは現在のことでも過去に起こったことでもそうでしょう。でも、「今、ここ、この状態」の自分に対して心が満たされていなかったら、それらが叶ったところで一時的な渇きはいやされても、いずれまた別の何かがないとハッピーでいられなくなるのではないでしょうか。Anneは自分の体験も交えながら「作家にとっては書くこと、書けることがすでにご褒美だということを噛み締めなさい」と言っているかのようです。また、外からの評価とは無関係の価値基準で、”enough”、つまり「自分は精一杯やった」ということに満足できるようになるためには、人間的な成長が必要です。罰や、物や愛情というご褒美を理由に頑張るような状況では、この”Inside Job”のスキルを身につけることは難しいのかもしれません。

彼女の本は他にもたくさんあり、いくつかはオーディオブックにもなっていて図書館で借りられることがわかりました。彼女の他の本も読んでいきたいと思います。

“タイガー・マザー”の波紋

現在アメリカで大変な論議を呼んでいる“Battle Hymn of the Tiger Mother”という本があります。この本は中国系アメリカ人の母親が自分の子育てを振り返った自叙伝という形で書かれており、メディアではまだ幼なかった娘たちに対して何時間もピアノの練習をさせたり、次女からの手作りの誕生日カード突き返したりというようなエピソードが取り上げられています。控え目にいっても彼女の子育ては「かなり厳しい方針」と言えるでしょう。アマゾンでもこの本の評価は真っ二つに分かれています。私はまだ本を読んでいないのですが、最新号のTIME誌でこの話題が著者のインタビューとともに取り上げられていました。それによると、著者のChua自身もこのような厳しい方針で育てられたそうです。著者の「子供の頃、親が選択肢を制限して厳しく躾けられ、可能性を最大限に生かせるように育ててくれたおかげで、大人になってからの選択肢が広がった」というコメントが印象的でした。TIME誌は心理学者の調査なども引き合いに出しながら、たとえば計算ドリルなどをとことん繰り返させ、考えなくても出来るレベルまでもっていくことで、もっと高いレベルの思考をするだけの余裕が脳に生まれることから、ひたすら繰り返しや練習をさせることに意味があるという指摘をしています。一方で、親子のあたたかい心の交流の欠落や、言葉による脅しやプレッシャーが子どもに与える悪影響という観点から問いかけを受けた著者は「確かに(たとえば、長女を”garbage”(ごみ)と呼んだというエピソードなど)やりすぎたという部分はある」と認めるコメントが載っていました。

本の出版から大変な論議を読んだおかげで、著者のところにも様々な感想が寄せられているそうです。「やりすぎだ」という声がある一方で「自分の親ももっとプッシュしてくれていたら、もっと大きなことができたかもしれない」という感謝の声もあるということでした。確かに、「そこそこ」ではない、抜きん出た技術を磨くためには、長い間の鍛錬が必要ですし、子どものうちからそれをやらせるためには親の確固たる方針をもとにきっちりと導いてやらなければならないという面はあるでしょう。「あなたはもっとできるはず」という言葉や態度で、最大限まで努力をさせること自体は必ずしも悪いことではないと思います。でも、一方で、そこに無条件の愛情はあるのだろうか?あるいは、無条件の愛情をきちんと感じさせることはできるのだろうか?と感じます。親自身はもちろん「あなたのためを思うから言ってるのよ」「あなたには出来るはずと信じているからプッシュするのよ」と知っているし、それを言葉では子どもに伝えるでしょう。でも、子どもが「たとえお母さんの期待に応えられなくても、自分は価値のある人間なんだ」「たとえ最高の成績が取れなくても、お母さんの愛情には変わりがないんだ」と、頭でなくハートで感じることができるでしょうか?

TIME誌の記事は、最後に「中国系ではあるが、この本のストーリーは”Quintessentially American” 、典型的なアメリカの物語だ」と結論付けています。移民としてアメリカにやってきて、身を粉にして働き、子供でも言い訳の余地なしに粘り強く頑張ることが成功の秘訣だと言われたら、それに対して反論の余地はほとんどない、と。著者の娘たちは今10代後半になっており、自分の子供たちにも同じような躾をするだろうと言っていることから、今となっては母親のChuaに対して感謝していることが伺えます。彼女たちは、自分たちがそこまで「優秀」でなかったり、親の期待するようには才能を発揮できなかったとしても、親の愛情には変わりがないと心から実感しているのかどうか、とても興味深いところです。著者の言うように、アメリカの典型的な親が「なんでもないこと」に対して子供に賞賛の声を浴びせて、その結果、子どもが褒められないと動かない子どもになってしまったり、「ひ弱」になってしまうという一面はあるかもしれません。でも、学校の成績や他人からの評価がここまで内面化(人間の価値を左右する原因となっている)されている社会において、子どもが生きる中で経験する挫折や失望を乗り越えられる強い心を持った大人になっていくには、条件つきでない愛情をどのように、どれほど感じさせることができるか、ということが、とても大きな意味をもつと思います。アマゾンのレビューでは「著者が娘たちがいかに成功を修めているかがさんざん書かれている」というものもありました。実際のところを知るために、やはり本を読んでみるつもりです。

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