自閉症のレジ係が働く大型チェーン店に賞賛の声

アメリカのペンシルベニア州で、ある父親が自閉症の娘のための靴を買いに大型チェーン店ターゲットを訪れました。お金を払う段になってレジに並んだところ、そのレジ係の男性が自閉症であることに気がつきました。彼はまったく他人と目を合わせなかったし、定期的に体を前後に揺らしたりという挙動をとっていたのです。でもレジの仕事は素早く完璧にこなしていたし、目は合わせないながらも、丁寧な応対でレジ係が言うべきこと(おそらく「よい一日を!」といったようなこと)を言っていたそうです。この父親は、列に並んで待ち、自分の番がきてお金を払うまでの短い時間でも彼が自閉症であることに気がついたのだから、この男性を面接した人々がそのことに気がつかなかったはずはないと考えました。それでも彼を雇ったターゲットという会社に一言”Good job!”と言いたくて、Facebookのページにこのストーリーを書き込んだところ、この記事を書いている時点でなんと48万人以上の人が「いいね!」を押していました。彼のFacebookの投稿はこちらからご覧いただけます。

思いがけない大きな反響に驚いたこの父親は、この一連の出来事と、どのようなコメントが来たかということについて彼のブログにまとめました。このブログでは、彼は「Facebookに投稿した意図は、自閉症の娘を持つ父親として、自閉症の大人を雇用したターゲットという店にたまたま居合わせたことを、自分のネットワークの中で自閉症を持っているかあるいは自閉症の子どもを持つ親たちに伝えたかっただけなんだ」と説明しています。でも、あまりの反響の大きさに、Facebookのコメントひとつひとつにコメント返しはもちろん「いいね」返しもできないので、このブログ記事でまとめて返信をする試みをしました。

それによると、彼のFacebookの投稿に対するコメントの99%はとてもポジティブなもので、残りは

・これはターゲットのPR部門によって捏造されたストーリーだ。

・ターゲットという会社が「差別をしない」ことを褒めるべきではない(差別しないのが当然だから)

・ターゲットは同性愛者や軍人を差別している

・自閉症のレジ係が賞賛されるべきであって、その雇用主ではない

などといったコメントだったそうです。

私自身、このストーリーと、その反響の大きさ自体、ポジティブなことだと感じました。Facebookのコメントには、このお店のある地元に住む人々から「そのレジ係を知っている」とか「彼はとても素晴らしいから、自分はいつも彼の列に並ぶ」というものもあったそうです。でもそれ以上に私が共感したのは、このブログを書いた父親の「ターゲットは『差別をしない』ことをほめられるべきではない」という点についての返信です。

Target shouldn’t have to be praised for not discriminating. The way the world should work is. . . people do the right thing. All the time. Everyone does. You don’t get credit or kudos for doing the right thing. . . you just correct those who are doing the wrong thing. But that isn’t the way the world works. When you find a good story. . . a little victory. . . you celebrate it. You give thanks. You give kudos. You hope for more, but you take in your little successes you praise positive behavior and you build on it and hope for bigger and bigger successes.

「正しいこと」をして褒められるべきではない。「正しいこと」をすべきなのだから。正しくないことをしている方を直すべきではないのか。という意見に対する答えとして、本来はすべての人や会社が「正しいことをすべき」だけれど、現実はそうなっていない。だから、このようなことを目撃したら、喜ぶべきなのだ。感謝の意を伝えて、「おう、頑張ってるな」と言うのだ。同じようなポジティブなことがもっと多く、大きなスケールで起こって欲しいと目標は高く持ちつつも、身近な小さな成功を喜び、それを積み重ねていくのだ、と彼は言っています。

これは人生のさまざまな面について言えることではないか、と思います。自分自身が目標としていること、成し遂げたいことについても、また子育てについても。多くの人からの「いいね!」は、この父親の短い投稿に対する共感そして拍手の気持ちなのでしょう。小さな成功を積み重ねること、それを喜び祝うことの大切さを教えてくれたストーリーでもありました。

「常識からはみ出す生き方」の著者、クリス・ギレボーと会えるチャンス!

無料の電子書籍「世界征服へのやさしい手引き」を書いたクリス・ギレボーの最初の本、”The Art of Non-Conformity”の日本語訳がこの夏に発売になりました。私のアマゾンのレビューはこちらでお読みいただけます。

クリス・ギレボーは今年2冊目になる本”$100 Startup”を出版しました。この本はNew York Timesのベストセラーにもなり、日本語の版権も既に売れていると聞いています。この2冊目の本があまりに売れたからだと思いますが、ふたたび南カリフォルニアでブック・ツアーが行われることになったそうです。実はもう今週に迫っています。5月にパサデナに来たときの様子はこちらに書いたとおりですが、ブック・ツアーでのmeetupはとてもインフォーマルで、事前登録さえ必要ないイベントです。ふらっと立ち寄って、クリス自身だけでなく、その場に来ている人々と交流したりできる場所でもあります。サンディエゴでは、7月にポートランドで行われたWorld Domination Summitに参加した人々のグループがFacebook上で立ち上がっており、かなりの人がまたクリスに会いにラホヤに集まる予定のようです。クリスのメッセージに賛同する人々とつながることも刺激になるはずです。

このWorld Domination Summitは今年は1000人の参加者を集めてポートランドで行われました。チケットは発売後すぐに売り切れになり、5000人近くの人がウェイティング・リストにのっていたほど。2回目となる今年は最終日にサプライズがあり、参加者全員に$100の入った封筒を渡されたのです。初日にも彼の本が参加者全員に配布されており、最後には$100の現金。“What difference can you make for you, for someone, for this world, with this $100?”と言われているかのようです。下記の動画はそのときのクリスのスピーチです。

WDS 2012: The $100 Investment from Chris Guillebeau on Vimeo.

世界中から1000人ものファンを集めることができる、クリス・ギレボーって一体どんな人?という興味が満たせるだけでも、この無料のmeetupに行く価値は十分あるのではないでしょうか。日時等の詳細についてはこちらのブログ記事をご覧ください。

クリス・ギレボーの出版記念イベントに参加しました

5月31日にロサンゼルスで行われた、クリス・ギレボーの出版記念のイベントに行ってきました。サンディエゴを9時過ぎに出発し、途中でコスタメサに住む友人夫妻、そしてロサンゼルスに住む友人を訪ねながら、会場となった本屋のあるパサデナというところまに6時半過ぎに到着すると、既に多くの人が本屋の裏のスペースに集まって開始を待っていました。7時過ぎにロサンゼルス会場の主催者から紹介を受けたクリスは、どうしてこの本を書こうと思ったのかというところから話を始めました。会場を見渡してみると、老若男女、実にさまざまな人種や年齢層の人々がいて、改めてクリスの活動をフォローしたり支援したりする人々の属性の幅広さを感じさせました。クリスからの話に続き、質疑応答。「大学に行くかどうか迷っているが、どうしたらいいか」といった質問もありました。これにはクリスも“I don’t like to accept that responsibility of telling people what to do”. と前置きした上で、自分の長期的なゴールは何なのか?自分にとって何が一番大事なのか?それを達成するために、大学に行くことはどんな意味を持つのか?ということを考えてみるべきだと言っていました。そしてこの本のテーマであるマイクロビジネスを始めるためにはMBAは必要ない、とも。

会場に向かう前にロサンゼルスで会ったアメリカ人の友人は3ヶ月前、偶然にも我が家の三男と同じ日に二人目のお子さんを出産したばかり。彼女は弁護士で、会社からは6ヶ月間の産休・育休の最中でした。クリスの本の話をしたところ、とても興味を示していて「実は住宅ローンさえなければ弁護士を辞めたいとまで思っている」と言い出し、予想外のことに私も驚きました。彼女はもうすぐ2歳になる一人目のお子さんを出産したとき、一般的なアメリカ人らしくすぐに職場復帰をしたのですが、それによって子どもの最初の一年の子育ての醍醐味を味わい損ねたという思いを強く持っていたとのこと。今回は6ヶ月の産休を願い出たときに、もし却下されたら辞める覚悟をしていたそうです。すぐには無理だけれど、いずれ自分のペースでできるビジネスを始められたら・・・という気持ちを語ってくれました。今の法律事務所でパートナーにまでなった彼女でしたが、“I had no idea how I’d feel until I became a mother” と言っており、世の中には「やってみなければわからない」ことがたくさんあるな・・・と感じたのです。その意味では、憧れていた仕事に実際についてみたらちょっと違っていたと感じたり、しばらくしたら他のことがやりたくなってしまったとしても、それがわかるためには必要な道だったのだとも言えるでしょう。そんな第2、第3の「新たな出発」のために勇気を与えてくれる本でもありました。質疑応答後、本にサインをしてもらった時に数分でしたが話をすることができ、7月にポートランドでの再会を期して家路に着きました。最後にクリスの話の中で「この本で何を感じ取って欲しいか」という部分の動画を載せておきます。

クリス・ギレボーの新作”$100 Startup”ブック・ツアー

以前こちらのブログ記事でもご紹介した「世界征服のためのやさしい手引き」を書いたクリス・ギレボーが、今月2冊目の本を出版しました。“$100 Startup”と題されたこちらの本は発売日にアマゾン総合ランキングで4位になる売れ行き。その内容もさることながら、そのための「仕掛け」の緻密さには今回も本当に驚かされました。この本は「自分でビジネスを始めたいんだけど・・・」という人に向けて書かれたものです。ビジネスを始めるためには多額の資金が必要なので、場合によっては借金をして・・・というイメージを持っている人もいるかもしれませんが、この本では少ない元手で、クリスの言うところの”マイクロビジネス”つまり多くの場合ひとりで、あるいは友人やパートナーと数人での小さなビジネスを始め、成功していった事例が豊富に紹介されています。また、これらのケース・スタディを分析し、自らの経験ももとに得られた「ビジネスを始めるためのステップ」が書かれています。発売日当日、アマゾンでは100を越えるレビューが掲載されました。

そして前回同様、発売日にブック・ツアーがスタート。今回は全米すべての州ではなく20あまりの都市ですが、今年の後半には世界7大陸を訪れるツアーも計画中とのことです。ここカリフォルニア州には来週やってくる予定で、サンフランシスコでは29日、サンタ・クルーズに30日、ロサンゼルスに31日に、それぞれの会場でMeetupが行われる日程になっています。詳しくはこちらのサイトの”Tour”のページをご覧ください。またこのサイトの”Resources”のページからは、シンプルなビジネスプランのためのフォームや、商品発売の際のチェックリストなどがダウンロードできるようになっています。

ブック・ツアーのMeetupはクリスの活動をフォローしている人々によってセッティングが行われます。例えば、前回のブック・ツアーのアトランタ会場はこんな感じでした。また、今回もノースキャロライナで行われた会場に私の友人が行ったのですが、集まった人々は誰も自分のビジネスやアイディアを攻撃的に売り込むような感じではなく、オープンで有益なディスカッションが繰り広げられたとのことで、クリス本人のように謙虚で気持ちのいい人々が引き寄せられてくるのだろう・・・と感想を教えてくれました。そう、ブック・ツアーの魅力は著者に会えるだけでなく、その場に集まる人々との交流にもあるのです。いずれ日本にも来たいと言っているクリス。実現することを楽しみにしています。

ダライ・ラマ14世、サンディエゴで講演

チベット仏教の最高指導者であるダライ・ラマ14世が、サンディエゴ州立大学、カリフォルニア大学サンディエゴ校、サンディエゴ大学の3大学で講演を行うためサンディエゴを訪れました。三男が生まれた日に発売になったチケットを友人の協力で入手し、心待ちにしていた日がついにやってきました。ひょんな縁から親子コミュニケーションコースの大先輩であり、私のメンター、そして大切な友人でもあるSusie Waltonと一緒に行くことになったのも必然だったのでしょう。今朝、サンディエゴ州立大学の会場で会った彼女は「きのうは楽しみで眠れなかったわよ!」と興奮気味。以前にも2度、講演に行ったことがあるということでしたが、ダライ・ラマが会場に姿を現したときには涙を流していました。

バスケットボールなどに使われるアリーナでは、中心に設置されたステージを観客席がぐるっと取り囲むような形で、私たちの席はステージの後ろからみるような形でした。講演中は主に天井に設置されたスクリーンに映る姿を見ていましたが、話の内容もさることながら、本人の持つオーラのような、力強い、それでいて攻撃的ではない空気が感じられました。話題は宗教のこと、許しのこと、親として子どもにするべきこと、最大限の幸せを感じる人生を送るには・・・・など多岐にわたり、講演時間の45分ほどはあっという間に過ぎました。

その後30分ほど質疑応答の時間となり、あらかじめ寄せられた質問を担当者が読みそれに答える形ですすめられました。ダライ・ラマの講演を聴くというのは初めての体験でしたが、77歳とは思えないパワー。そして意外にもとてもユーモアに溢れ冗談を交えながらの講演で、会場からはしばしば笑い声が聞こえました。アジア人らしいアクセントのある英語で、ときどき通訳者に「英語でなんと言うのか」と尋ねながらの話だったのですが、私が理解した限りでいくつか印象に残ったことをあげておきます。

・「自分」と「他人」の境目は(本来は)ない。すべては”Oneness”つまりつながっている。

・物理的な快適さと精神的な安らぎという二つの価値観がある。物理的な快適さはお金で買えるものだが、それでは精神的な安らぎは得られない。また、例えば病気などで身体的にはつらくても、精神面での安らぎや強さがあれば乗り越えられる。

・親(特に父親)は子どもともっと時間を過ごすべきだ。そして子どもに対して”Maximum Affection”(最大限の愛情)を注いでやることが、Compassionをもつ世代を育てることになる。また子どもには出来るだけホリスティックな体験をさせてやることが望ましい。

・たとえ「敵」と思う人がいたとしても、その相手自身が、自らのネガティブな行いの結果起こることを体験することになる。許しとはその相手への気遣いから起こる感情である。

・仏教の教えは「信仰心から教えを受け入れなさい」というものではなく「自ら体験し実験することで教えを受け入れなさい」というもの。その意味では、ブッダは科学者でもあると言えると思う。

・最大限、幸福な人生を送るためには「心の平安」が欠かせない。一人ひとりが幸福な人生、幸福な家族を築き、そして社会に貢献することで、よりよい未来が築かれる。そして正直に生きること。

・私の二つの目の片方は世界をみている。そして片方の目は来世を見ている。

質問のひとつに「あなたは世界中の人をインスパイアしていますが、あなた自身がもっとも影響を受けた人は誰ですか」というものがありました。これには「私は仏教徒なので、偏見があると思いますが・・・」と前置きし、「ブッダです」。これには会場も大爆笑。その後、ガンジー、マザー・テレサなどの名前を挙げていました。また、最後のほうで、日本の地震と津波のことにも触れ、実際に被災地を訪れたことを話していました。そして「日本は第二次大戦で何もなくなったところから立ち上がった。だから、また再建できると信じている」とも。講演を終えたあと会場を埋め尽くした観客から拍手喝采を受けながらアリーナをあとにしました。講演はウェブカメラで放映され、編集版がローカルテレビでも放映されるとのことです(スケジュールはこちらをご覧ください)。帰りの車のなかで、子どもたちに最大限の愛情を注いでいるかな・・・と自問自答。それを可能にするためにはやはり自分自身のケアをすること。時間に追われる毎日なので難しく感じられることは確かですが、家族みんなで仲良くハッピーな生活を送るためにもそれはとても大切なことなのだと改めて感じました。質問の中にも「自分はちっぽけな存在。こんな私に何ができますか?」というものがありましたが、すべては自分から始まるのです。自分自身を幸福にし、家族の幸せに貢献し、それがコミュニティや国、世代・・・につながっていく。そんな思いにさせられたダライ・ラマの講演でした。

目標を持たない生き方

今年の6月、ポートランドで参加したWorld Domination Summitのスピーカーの一人にLeo BabautaZen Habitsという有名なブログの著者)がいました。彼は、その昔はヘビースモーカーで太っていて借金まみれだったのですが、あるとき一念発起して少しずつ生活を変えていき、今では借金はすべて返済し、シンプルな暮らしをし、マラソンを走るベジタリアンになり・・・という大変化を遂げました。その変化の過程を書いたブログが大変な人気になったのです。そんな彼のプロフィールについては知っていたので、話を聞く前は「どうやって習慣を変えるのか?という話だろう」と予想していました。

実際に講演が始まると、予想通り「新しい習慣を取り入れるには」という話もしてくれたのですが、それとともに、今自分自身が向き合っているチャレンジのひとつとして「目標を持たない生き方」について語っていました。壮大な目標をうちたて、そのためのステップを細分化して毎日の”To Do(やること)リスト”にして・・といった、自己啓発セミナーでおなじみの目標達成手法とはまったく違った提案に少し意外な感じがしました。Leoは、「これといった目標を持たずに、毎日『これをやりたい!』ということだけをして生きることを目指している」と言っていました。

彼の講演を聞きながら「ふーん、そんな風に目標を持たないで好きなことだけやって生活して行けたら、それは確かにいいよね・・」と思ったことは確かです。ただ、今まで私が慣れ親しんできた考え方、つまり「やりたいこと」を決めて、達成したい時間軸を決めて、そのためのステップを細分化して着実にやっていく・・・というのとはあまりにも違う考え方だったので、その時は「そういう考え方もあるだろうが、自分はあまり関係がないな・・」という感じでそれほど真剣にとらえていませんでした。でも、その後7月に入ってから体調を崩し、それまでやっていたように「朝から晩までバリバリと課題をこなす」ことができなくなってから、ふと彼の言葉を思い出すようになりました。

朝起きてから「今日ひとつだけ片付けるとしたら何をするか?」と問いかけ、それだけできればとりあえず「よし」としてみる。ひとつといわず、幾つもこなしたいのはやまやまなのですが、体調というある意味どうにもならない制約がある時、ひとつだけを目標にし、それができれば「今日はOK!」と思うのか、それとも「ひとつしかできなかった・・」と自分を痛めつけるのか、どちらが精神衛生上より良いのかどうかは考えるまでもありません。ひとつでも達成できたことに気分を良くし、感謝し、でもいつかやらないといけないんだけど・・ということはとりあえず紙にでも書き出して「よし」としておく。そのくらい気楽に構えていれば、予定通り出来なかったことに対するプレッシャーのためにますます出来なくなることだけは免れそうです。

Leoによると、「毎日ひとつだけ目標をもつ」ということは、「まったく目標を持たない」の一歩前の段階なのだそうです。体調による制約という、ある意味不本意な状況になったことによって、図らずも「毎日これだけはやりたいと思うことだけを行う」という方向には進んでいるような気がします。多くの人にとってのチャレンジは「毎日やりたいと思うことだけを行う」ということでしょうが、このあたりは、ライフハック的な考え方と、いろいろな「法則」が必ず言及する「感謝の気持ち」を持つことで対応できそうです。もし「やりたいこと思わないことだけで毎日が構成されている」という場合には、このスティーブ・ジョブスの講演を見ることをお勧めします(このクリップは講演の後半部分です)。

日本語はいきのびるか

先日の記事でご紹介した「日本語が亡びるとき」の最終章で、著者の水村美苗は、学校教育で目指すべきところは「国民全員がバイリンガルになること」ではなく「国民の一部がバイリンガルになること」であると主張しています。「国民総バイリンガル社会」を追い求めることにより日本の言語状況はより悪くなるだけで、いいことはひとつもない、なぜなら、目指すべきなのは国民全員が「外国人に道を訊かれて英語で答えられる」程度の英語力があることではなく、「世界に向かって、一人の日本人として、英語で意味のある発言ができる人材」だから・・・と言うことです。

著者はさらに「教育とは最終的には時間とエネルギーの配分でしかない」「英語教育に時間とエネルギーをかければかけるほど、何かをおろそかにせねばならない」と主張し、国民全員が「英語が話せなければ」という強迫観念をもつことにより、日本語教育がおろそかになる(既になっている)という現状について危機感を募らせています。

アメリカ人の夫と国際結婚をし、現在のところアメリカで二人の息子に日本語と英語のバイリンガル教育を試みる立場の私にとって、この「英語か日本語か」という問題は、日本在住の日本人が考えるのとはまた異なる重みがあります。また、帰国子女でなく20代前半から本格的に英語を話し始めた私は「英語は決してやさしくはないけれども、大人になってからでも学ぶことできる言語」という認識をもっています。英語との比較において、やはり日本語は完璧にマスターするのはとても難しい言語ですし、敬語を含めた日本語が使いこなせることは日本文化を理解していることでもあります。この本と同時並行的に「日本語は生き延びるか」という本も読みましたが、やはり「日本人であることに自信がない人は外国語できちんと自己主張ができない」そして「語るべき内容がない人は日本語でもまともな話ができない」という一節が心に残りました。

現時点では子どもたちの母国語は英語になりつつあります。国際結婚の家庭において、両方の言語を同じ時期に同じくらい発達させるというのはバイリンガル教育の理想的な姿なのかもしれませんが、実際にやってみると、それほど簡単なことではありません。現時点では「やはり軸になる言葉は必要なのではないか?」と私は考えています。外国語の力は母国語の力を超えることはないのだとしたら、思考や発話において常に使用される、圧倒的に得意な言葉があることは自信につながりますし、そこから第2の言葉を学ぶ下地にもなるでしょう。ある程度大人になってから英語話者になった私は人様から英語を褒めていただくこともあるのですが、小学校から高校を卒業するまで一番の得意科目は現代文、古文、漢文、すべてを含めた国語一般だったことも考えると、言葉や言語そのものへの興味が基礎にあったことは確かなようです。また、日常会話レベルをマスターするためならともかく、語彙を増やしたり、書く力をつけたりするためには、その言語で読むことは必須なのですが、そもそも日本語で本を読むのが好きでなかったら、私にとって外国語である英語で何かを読みたいとは思わなかったでしょう。

日本語の危機を訴える2冊の本を読んで改めて感じたことは、子どもたちには可能な限り日本語でも英語でも本をたくさん読ませることが大切だということでした。私も小さいころには親にたくさん絵本を読んでもらったし、自分で本が読めるようになったら、「まだ読んでいない本」が常にまわりにあるような環境を作ってもらったという記憶があります。特に男の子は女の子に比べて脳のつくりから言語発達が遅い傾向があるので、「本がそこらじゅうにある」という環境を作ることはとても大切だそうです。この話を聞いてから、我が家では家の中でも本は一箇所に片付けず家のあちこちに積み上げておいたり、車の中にも本を置いておくようになりました。

5月に日本に行った際、書店でみかけた「日本人の知らない日本語」というコミック本が大変売れていることに、ある種の感銘を受けました。売れているのはコミック本だからという要素もあるでしょうが、内容に興味をもっている人が多いということでもあります。私も読んでみましたが、確かに知らないことがたくさん書かれていて、やはり日本語は奥が深いのだと実感しました。子どもたちが将来、日本語の美しさや貴重さに気がつき、世界の言語の中でも貴重で複雑な日本語を自分たちが操れることにプライドを見出せるようになるよう、そのための刺激を、日本人の親として与え続けていきたいという思いを新たにさせられました。

日本語が亡びるとき 

これは水村美苗という作家の長編評論で、「英語の世紀の中で」という副題がついています。非常に読み応えがある本でした。斜め読みして理解できる内容ではありませんが、バイリンガル教育に興味がある人にとっては、一読する価値はある本ではないでしょうか。

私は去年初めて「国際結婚一年生」という日本語の本を出しましたが、何人もの人から「英語版はないのか」と聞かれました。国際結婚のカップルの片方は英語を読む人である可能性が高いのだし、英語で書かれていれば、もっと多くの人の役に立つだろう、とも。確かにそのとおりです。この本を読みながら「英語で書かれていれば、読める可能性のある人は比較にならないほど増える」と当たり前のことに改めて気づかされました。

著者は第三章「地球のあちこちで<外の言葉>で書いていた人々」で、このように言っています。

くり返すが、学問とは、なるべく多くの人に向かって、自分が書いた言葉が果たして<読まれるべき言葉>であるかどうかを問い、そうすることによって、人類の叡智を蓄積していくものである。学問とは<読まれるべき言葉>の連鎖にほかならず、その本質において<普遍語>でなされる必然がある。(P144)

非西洋語圏の学者は・・(中略)・・・いったい何語で書いたらよいのか。
かれらは<自分たちの言葉>で書いてそのまま<読まれるべき言葉>の連鎖に入るわけにはいかない。かれらの使った言葉を読める学者は世界に稀である。かれらが書いたものが<三大国語>に翻訳される可能性は非常に低い。さらに、たとえもしかれらが書いたものが<三大国語>に翻訳されたとしても、非西洋語が西洋語に翻訳されたときに失われるものは大きい。西洋語を<母語>としない学者が<自分たちの言葉>で書いて、<読まれるべき言葉>の連鎖に入るためには、<外の言葉>で読むだけでなく<外の言葉>で書くよりほかにない。そのような学者の<世界>への参入は、学問とは、その本質において<普遍語>という<外の言葉>でなされる必然があるという、学問の本然を、今ふたたび、白日のもとに晒すものである。(P147)

ここでいう<普遍語>とは、世界的に通用する言葉、つまり今の時代では英語ということになります。この部分を読んだ時、村上春樹の小説について考えました。彼の小説の多くは英語に翻訳されています。村上春樹のファンは世界中にいますし、日本語以外では英語版の読者が多いのでしょう。でも翻訳という過程では「何かが失われる」ことはほぼ避けられません。先日、コスタメサの紀伊国屋書店で、村上春樹の英語翻訳本についての分厚い本を見かけ、つい手にとってみたところ、主な英語版の「致命的な」誤訳あるいは意訳について詳細なリストが挙げられていました。実際のところ、村上春樹が英語で書く日を待ち望んでいる英語読者のファンもいるのではないでしょうか。私の好きなアメリカ人のブロガークリス・ギレボーに会って”1Q84″について話したとき、「そんなに長い小説なら英語になることは不可能だろう」と彼が言っていましたが、やはり”1Q84″もそのまま英語にするにはあまりに長すぎるので、1巻から3巻までまとめて1000ページほどになるという情報も見かけました。

著者は第6章で「今、漱石ほどの人材が、わざわざ日本語で小説なんぞを書こうとするであろうか。(中略)たぶん書かないような気がする」、また「言葉の力だけは、グローバルなものと無縁でしかありえない」からこそ、日本人で英語でも書ける人は(<叡智を求める人>であればなおさら)英語で書くようになっていく、という危機感を抱いています。日本人が日本語で書かなくなれば、日本語は言葉として亡びるしかないので、そうした事態を防ぐために、第7章「英語教育と日本語教育」において、「学校教育で何を目指すべきか」という論理が展開されていきます。

私自身は、たとえば村上春樹は、いくら英語を不自由なく書くことができたとしても、日本語でも書き続けるだろうという気がしています。すべての人が<読まれるべき言葉>の連鎖に入りたいとは思わないだろうからです。人には誰でも、自分の経験や能力のうち最も人様の役に立つことのできる分野、そして誰のためにそれを行いたいかという対象があります。その意味で「日本語しか読むことのできない人」のために、日本語で書き続ける人はいなくならないでしょう。そうした形で書かれたものが、著者のいうところの普遍的な学問のレベルに達するかどうか、それは書き手以外の人々、あるいは後世の人が判断することです。多くの人が自分の自由意志で好きな分野に取り組み、好きな言葉で書いていった結果として、日本語が今の「地位」を失い、<叡智を求める人>が読み書きできなくなる言葉に「なり下がった」として、人類が文化的に貧しくなるのだろうか?もしそうなるとしても、それはそんなによくないことなのだろうか?という気がしています。長くなりましたので、次回で「国際結婚家庭の選択」についてさらに考えてみます。

比べないこと

4月ももう少しで終わろうとしています。中旬に体調を崩し、回復に向かっている最中です。ちょうど、親しい友人も調子を崩していたことがあり、彼女に「自分に優しくして」などと助言をしていたときでもありました。「自分に優しく」とは具体的にどういうことでしょうか?

「人と比べることは意味がない」というような言葉を時々耳にします。比べる対象は、目標としているような人であったり、調子のいいときの自分のときもあるでしょう。震災があった直後、多くの人は無意識のうちに、被災者と自分の置かれた状況を比較して「命があるだけでもありがたい」「愛する人が生きているだけでも・・」ということを思ったでしょう。これはごく自然なことです。でも中には、自分が直接被災したわけでもないのに、落ち込んでしまった人も少なからずいたと思います。

2月末に、近所のRock Churchというキリスト教の教会に、ニック・ボイジッチ(Nick Vujicic)という人が、その教会の選任牧師の代わりにミサを執り行うためにやって来ました。ニック・ボイジッチさんは、自らもロング・ビーチというロサンゼルス近くにある教会の牧師です。生まれつき両手両足がない彼は、青年時代にはやはり自殺も考えたほど苦しみましたが、キリスト教のメッセージに目覚め、今では自分の教会を持っています。友人から彼がサンディエゴにやってくると聞いて、家族でこの教会に行きました(大規模な教会で、施設も充実しており、ミサの間子どもたちを預かってくれるのです)。実際にライブで彼のスピーチを見たとき、ニックさんはエネルギーに満ち溢れていました。また、自分に両手両足がないことをネタにしたジョークも連発していました。何と、飛行機の機内で荷物を置く棚に隠れて人をびっくりさせるといういたずらもしたことがあるそうです。これには3階建ての会場満杯の聴衆も大爆笑でした。

ニックさんは、人と比べないことについて語っていました。「僕に会った人は、僕に両手両足がないのを見てみんなびっくりする。そして『ああ、君は大変なんだな。(自分は五体満足なんだから)もう月曜日の朝に仕事に行きたくないなんて文句を言うのはやめるよ』なんてことを言う。でも、僕は言うんだ。『だって、月曜日だろ。無理ないさ』って。」人はみんなそれぞれの現実で生きているわけなので、自分よりももっと大変な状況にある人がいるからといって、自分の悩みがなくなるわけではない、ということを彼は言っていました。自分が不幸でどうしようもないと感じられる時に、大局を見ればそこまで悲観したものでもないよね、とか、もっと大変な人もいるんだから、こんなことで弱音を吐いては・・・という考え方は「正論」だし、それでエネルギーが沸いてくる時もあるでしょう。でも、「もっと大変な人がこんなに頑張っているのに」と比べることによって、さらに「だめな自分」と言う風に落ち込んでしまう時もあるのです。今回気がついたのは、素晴らしいエネルギーを放っている人に触れて元気がでるのか、あるいは余計に落ち込んでしまうのかという違いが、自分の調子のバロメーターになっているということでした。良質の刺激を受けても元気が回復しないどころか、比較してしまってさらに気分が落ちこんでいるときは、もう少し深い癒しや、長い休養期間が必要なのかもしれない、と。そしてそんな時には「人と比べないこと」こそが自分に優しくすることであり、回復の第一歩なのかもしれません。哲学者プラトンもこう言っています。

“Be kind, for everyone you meet is fighting a hard battle.” (優しくしなさい。あなたが会う人はみんな、厳しい闘いをしているのだから。)

「あなたが会う人」の中に、自分自身も含まれています。人と比べることで自分をいじめないように。時には病気になることも自分に優しくしなさいというサインなのかもしれません。

人はなぜ「やりたいこと」をやりたくないか

「私の目標はXXをすることです」とゴール設定をしても、そのための行動をなかなか起こせないことってありますよね。私も去年は「ギターを習得する」という目標をたてましたが、1年以上たっても一向にすべてのコードが覚えられません。コーチという職業柄、私はいろいろな方とお話をし、「実はこれこれがやりたいんです」というお話をお聞きします。実は「このゴールを達成するために何をしたらいいのか」という方への助言は比較的シンプルです。もし、その目標が多くの人がすでにやっていること・一般に知られていること(何らかの資格試験に合格する、ダイエットをする、楽器を習うなど)であれば、「すべきこと」はある程度明確ですね。この点の情報収集はやる気があれば自力でも十分に出来るでしょう。

でも、「やるべきことははっきりしている。でも中々できない・・」という場合は、「何を」ではなく「なぜ」あるいは「どうやって」を考えてみなければなりません。例えば、「素敵な人と出会えないかしら」と思っている人がまずやるべきことは、出会いのチャンスを多くする行動、そして出会いたい願望があるという意思表明です。でも、そのときに「そういった場に行くのが億劫」とか「そんなことを周りの人に言ったら、何て思われるか?」などという理由をつけて、結局行動を起こさず、時が過ぎていく・・・ということもあります。これはどうしてでしょうか。なぜ人は「やりたいこと」をやりたくないのでしょうか?

ひとつには「習慣」が挙げられます。今までのやり方を変えるということは実はとても大変なことです。私たちの行動や考え方は習慣に支配されていること、そして私たちが無意識にとっている行動のほとんどは、ライフハック心理学の佐々木正悟さんが言うところの「習慣の勝ち抜き組」、つまり小さいころから今まで、何らかの理由で私たちが選んできた一連の行動の集大成なのです。それだけに、新たな習慣をつけることにはそれなりの努力が必要です。よく「30日間毎日行うと習慣になる」(事項によっては60日だったり、90日だったりします)と言うのはそのためです。「今日から週に1回これをしよう」と思っても中々続かない理由がここにあります。

でも究極的には「なぜそれをやりたいか」よりも、「なぜそれができないか」という理由のほうを自分が大切にしているから、ということではないでしょうか。頭では「これを実行したい」と思っていても、その「なぜ」が明確でなかったり、現状にさほどの苦痛を感じていなかったり、目標を達成して手に入れられるはずのものを全身全霊で信じていなければ、なかなか現在の心地よい場所から出て行くことはできません。言い方を変えれば、実行に移さずにそのまま時が過ぎていっても、実は現在の状況がそれほどイヤではない、ということです。私のギターの例で言えば、ギターをいまだに習得していない理由として「時間がない」「練習していると子供たちが寄ってきて触りたがるので中断せざるを得ない」などがありますが、実はギターを習得するために時間を作り出す行為(子どもたちが寝た後に好きなドラマを見たり、ブログを書いたりすることを我慢する)をしたくないからです。また、ギターを演奏できたらどんなに素晴らしいだろうか(達成して得られるもの)ということについての感情的なインパクトがそれほどない、というのも大きな理由でしょう。「演奏できたらいいな」くらいには思っていますが「絶対にマスターしたい!」という強い気持ちがないのです。

このことを「優先順位」という人もいるでしょう。村上春樹の「やがて哀しき外国語」という本の中で「そんなに何もかもは出来ない」という一節がありましたが、まさにそれです。無限の時間や可能性があるように思えた子ども時代が終われば、誰でもいつかは限られた時間の中で(意識している・いないに関わらず)優先順位に従って、「何をするのか」を選択をしていくことになります。コーチングが目標達成の過程をスピードアップできるのは「何をやるのか」の部分もさることながら「なぜそれをやりたいのか」「どうやってやるのか」のプロセスを、あたかもパーソナル・トレーナーが一緒にトレーニングをしてくれるように、一緒に考え伴走してくれる人がいるからにほかなりません。日本では新しいことを始めたくなる4月。「やりたいこと」を「やりたくない」ままに時間が過ぎていく・・・と思っている方は、ぜひコーチングも検討してみてください。

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