家族のDNA

今年の4月にあった母方の祖父母の法事での会話をきっかけとして、5月の連休の日曜日に叔母夫妻、私たち家族と兄夫婦で実家に集まりました。

母方の家族は音楽一家。祖父はバイオリン、祖母はピアノをやっていて、祖父は94歳で突然亡くなる前の日までバイオリンを弾いていたそうです。祖父母の子どもたちである私の母やふたりの叔母も、ピアノ、バイオリン、エレクトーンなどをやっていました。母はピアニストになり、音楽大学で今でも現役で教えています。そんな環境だったので、子どもの頃は私も兄もピアノを習っていました。あくまで趣味の域を出ませんでしたが・・・

法事のあとの会食の場で、我が家の子どもたちが管楽器にも興味を持っている叔母夫婦に話したら、楽器をたくさん持っているからぜひ今度、私の両親の家で集まろうということになったのです。

連休の日曜日、叔母夫妻が実家に到着すると、次々と楽器が運び込まれました。私と母のピアノ連弾や、母と叔母のピアノとバイオリンの演奏など、ひととおりそれぞれが曲を披露したあとに、叔父の数々の楽器のお披露目大会に。叔父のメイン楽器であるホルンはもちろんのこと、トロンボーン、トランペットなどの管楽器に加えて、ジャンベ太鼓やディドゥリドゥまであったのには本当に驚きました。

サンディエゴで一度、友達の演奏を聴いたことのあったディドゥリドゥ。実家で聴くことができるなん思いもよりませんでした。

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その後はそれぞれが入り乱れてのジャム・セッション。兄夫婦もピアノの連弾で参戦し、4歳児の三男も太鼓をたたいたり、鈴をもって踊ったり・・・音楽に動かされている感じでした。
IMG_4535夫は特に楽器を弾かないので、退屈するかな?と思っていたら、長男のジャンベ太鼓演奏に触発されたのか、その後にジャンベ太鼓をたたきはじめ、それにあわせて叔父がディドリドゥを弾きはじめると、そこに入ってきた長男は曲に合わせて踊り始めました。叔父がディドリドゥの説明をしてくれたときに、オーストラリアの先住民のアボリジニの伝統的な民族楽器で、お祭りのときなどにこれに合わせて踊る・・・という話を理解していたのか、はたまた長男に刷り込まれているダンスの魂なのかはわかりませんでしたが…
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「アルプスの少女ハイジ」の曲の冒頭にひびきわたるアルトホルンは、長すぎて写真におさまりきらず。
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トランペットがやりたい次男も、念願かなって楽器を触らせてもらえて満足げ。子どもたちは、トロンボーンもチューバもポケット・トランペットも初めてなのに、音をだしていたのには驚きました。
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母と叔母が演奏を始めるときに、兄が祖父母がふたりで映っている写真をもってきたのが印象的でした。母が子どもだったころにも、こうして家族で演奏会をしていたのでしょう。
IMG_4560祖父母がそれぞれ2004年、2005年に亡くなってからしばらく後、私や兄が小さい頃から時々訪ねていった東京の祖父母の家はもうなくなってしまいました。でも、おじいちゃんとおばあちゃんの音楽好きのDNAが、私たち、そして子どもたちの世代にもこうして受け継がれていくんだなぁと感じて、なんだか感慨深い日になりました。

家族で「この時には決まってXXをしていた」というファミリー・トラディション。子どもたちの成長につれてだんだんと行われなくなったりしていくこともありますが、でも何年もなにもしていなくても、こうしてまた復活させたり、新たに始めたりできるものなんですよね。また、これが自分のルーツの一部なんだなということも感じたので、来年また集まるときには、ハワイで買ったままで進歩がみられないウクレレもまた手にしていきたいなと思います。

War and Peace

photo-1447755086558-cb9e3830d677また新しい年が始まりました。英語でNew Year’s Resolutionという言葉がありますが、これは一年の始めに「今年はXXをしよう」と決めるものです。個人的には、Goal(目標)よりももう少し強い、「誓い」みたいなニュアンスなのかな?と感じています。

2015年という年は、自分としてはあまり満足のいく年ではなかったと(去年のうちは)感じていました。2014年の後半に、海を越える大きな引越しをして、生活がやっと落ち着いた春ごろから、なんとなくやる気の出ない時期がずっと長く続いたのです。今から思えば、数年越しの夢を実現させたことや、また新生活の立ち上げのストレスや緊張感などからくる疲れがでて、ある種の燃え尽き症候群だったのかもしれません。せっかく日本にいるのだから、もっと多くの人に会ったり、いろいろなことを仕掛けたりしてビジネスのチャンスを広げなければという焦りもあったりして、なかなか思い通りにものごとに集中できない自分に対していら立ちを感じることが多かったように思います。

また、これは典型的なワーキングマザーのジレンマでもあるのでしょうが、子どもたちと一緒にいるときには「仕事を頑張っていない」という気になり、子どもが学校や保育園に行ってひとりになる昼間は「子育てをきちんとできていない」という気持ちに(今までになく)苛まれたこともありました。アメリカにいるときでも、長男が生まれた2006年からずっと子どもを預けながら働いてきましたが、私は結婚する以前は「働くこと」もひとつの大切なアイデンティティであったため、この部分に関してはそれほど深刻に悩んだことはありませんでした。このジレンマを強く感じるようになったのは、日本に移住してきたからでもあったのかな、と今になって思います。アメリカで生まれた子どもたちにとっては日本は外国でしたし、特に日本の学校に通い始めた12月からの数か月間というのは、彼らもそれまでの人生の中で一番チャレンジングな時間を過ごしていたでしょう。彼らをこのクレイジーな冒険に巻き込んだ当事者として、もっとサポートしなくちゃいけないのに、というプレッシャーを無意識のうちに自分にかけていたのかもしれません。

でも年が明けてから改めて、去年動いてきたことの成果として、今年起こる予定のふたつのことについて書いてみたら、そんなに悲観したものでもなかったのかな、と思えてきました。ひとつは、横須賀基地で、基地に勤務しているアメリカ人と交際(婚約、結婚)関係にあるというカップルを対象に “Cross-cultural relationship workshop”を今月から月に一度開催すること。そしてもうひとつは、2012年にハワイで出会った“Attached”を私が翻訳した本がプレジデント社から出版されることです。また、アメリカにいたときは主に国際結婚をして困っている人からのご相談が多かったのですが、日本に来てからは、国際結婚を目指した婚活をしている方のサポートにも需要があることがわかり、仕事の幅が広がってきました。春にはグループコーチングを行い、参加してくださった皆さんからは高い評価もいただきましたし、いくつかのコラボセミナーも行いました。

クリスマスの日から旅行に出かけ、旅行の終盤で迎えた年越しはシンガポールでしたが、元旦になってからやっと「2015年はいい年だったんだ」ということに改めて気がつき、なんだか少しもったいないことをしたような気持ちになりました。「もっと達成できたのに」という意味ではなく、いろいろと素晴らしいことが起こっていたのを、そのときそのときにちゃんとappreciateできていなかったかもしれない、ということに対して。

そんなときにFacebookでLodro Rinzler”A Different Kind of New Year’s Resolution”という記事を目にしました。これは2014年の暮れに、2015年に向けて書かれたものですが、読んでみるとまさに私が2015年を過ごした心境について言及されていました。それは一言で言うと “berating”つまり厳しく批判するということです。彼は「多くの人は、前の年にできなかったことや自分の変えたい部分を新しい年に『頑張ってやり遂げよう(変えよう)』とするけれど、できていないところを直して満足しようとするのではなくて、現時点での自分自身をよりよく知って受け入れることでハッピーになったほうがよい」と説いています。

Maybe, instead of trying to fix ourselves, we should take on a resolution of self love and learn to embrace who we are at this very moment.

要するに、去年の私はself-compassionやself-loveが足りていなかったということになりそうです。私は何人かの仲間と一緒に1月11日から始まるBrene Brownのオンラインコースに参加するのですが、彼女の最新刊”Rising Strong”の中で、「人々は本当にベストを尽くしているのか?」という質問がでてきます。著者はこの質問に対する答えは常にYesだ、という立場に立った上で、“Stop loving people for who they could be and start loving them for who they are”と述べています。この文章が出てくる箇所は、組織の中で力を発揮していない人についての対応という文脈で書かれているのですが、これを自分自身に置き換えても同じことが言えるのではと感じました。私が「集中できない」「やる気がでない」と悩んでいたときにもっとも助けになったのは、「これではだめじゃないか」という批判や、「もっとやらなければ」という叱咤激励ではなくて、「今の自分にできるベストを尽くしている」ことを認めて受け入れることと、ジャッジメントではない好奇心だったはずなのです。ジャッジメントやフラストレーション、怒りはエネルギーを使うものですし、できない自分をさらにいじめていたのかと思うと、それでは長期的に持続する集中力もやる気もでなくて当然だったという気すらしてきます。

Lodroは記事の中で「自分に優しくすることと、怠けることは別」とも書いています。これは私も常に気になっていることですので、この箇所を読んで思わずニヤリとしてしまいました。「健康のためにヨガに行こう」と決めていても、つい暖かい布団から出たくなくて「自分に優しくしないとね」と言って2度寝する・・・という例が挙げられていますが、彼は「心の底では、自分に本当に優しくすることとは、心地よいと思うところから少しだけ自分を押し出すことと知っているはず」と諭しています。なぜ変わりたいと思ったのかという目的をクリアにすることも必要で、かつ、その変わろうとするプロセスの間、自分に優しい目を向けることを忘れないようにということでしょう。

If you are constantly at war with yourself, how do you think you can relate peacefully with other people?

人は成功するから幸せなのではなくて、幸せだから成功するとも言われています。どんな状況も受け入れ、認められる人が、目の前の問題を解決するクリエイティビティを発揮できるということなのでしょう。ビジネスでもプライベートでも「今年はXXを達成したい」という目標はそれなりにありますが、何よりも去年学んだことを生かして、まずはベストを尽くすこと、そして自分はベストを尽くしていると認め受け入れることを心がけたいと思います。

(image by Natasha Norton)

2000人の聴衆を前にスピーチをした日(World Domination Summit 2015)

19047671793_559f8e38cd_k2011年から4年にわたり、毎年夏に行われる世界征服サミット(World Domination Summit略してWDS)に参加してきました。何が起こるかもわからないままに参加した最初の年、「こんなイベントは今まで体験したことがない!」と衝撃を受け、イベント開催中にもう翌年の参加を決めたのでした。そして2年目は開催月が6月から7月になったこともあり、夏休みの家族旅行も兼ねてシアトルとポートランドを訪ねました。2年目の最初のスピーカーはDr.Brene Brownで、彼女の講演に深い感銘を受けたのを覚えています。過去5回の中でもこの年は講演者が秀逸だったのに加えて、閉幕の間際にWDSチームから1000人の参加者全員に100ドル札の入った封筒が手渡された回でもあり、今まででも一番印象に残っている年です。

058その翌年の2013年の夏はちょうど家族で日本に5週間滞在していたときだったので、日本から単身でポートランドまで往復し、数日間を過ごしました。講演者のひとりだったDarren Rowseの語った夢についての言葉が心に残り、WDSから帰る飛行機の中で「1年以内に一家で日本に移住する」と決意し、帰国の翌朝夫に話をしました。目標を定めて動いてきたことが翌年の6月に実を結び、その年の秋に日本への移住が実現しました。WDSに参加したことをきっかけに経験した、あるいは自分が選択したことのなかで、これは一番大きな出来事だったと言えるでしょう。

2014年のWDSでは「もう4回目になるし、今までと違う体験ができたら」との思いで、「アンバサダー」と呼ばれるボランティアスタッフとしての参加を希望し、舞台裏を体験することができました。また日本移住の2か月前だったこともあり、しばらくアメリカを離れる前にと再び家族でシアトルとポートランドを旅行し、親しい友人たちを訪ねる旅にもなりました。この年はまた、WDS本番の前に「ヨガの世界記録に挑戦する」という楽しいイベントもあって、子どもたちもその様子を見せることができたのはいい思い出です。001-1サミット参加の2か月後に日本に移住。2015年の参加を決めたのは年が明けた1月のことでした。今年はまた日本からの参加になるし、正直なところ参加をどうしようかなぁと思っていた部分もありましたが、今までの積み重ねから家族は「きっと行くんだろう」と思っていてくれたようです。そのサポートがあったことと、過去4年通う間に出会った友達にWDSで再会したいという気持ちがあり、今年1月のチケット販売の時に購入しました。

そしてあっという間にやってきた7月。例年どおり金曜日にポートランド入りし、その夜のオープニングパーティから始まって怒涛の週末を過ごし、月曜の午後にはまた日本行きのフライトに搭乗するという慌ただしいスケジュールでしたが、時差ぼけにもならずハイテンションのまま過ごした気がします。今年のハイライトはやはりサンディエゴのWDSグループの仲間に会い、楽しいひと時を過ごしたこと、そして日本のコミュニティのみんなと檀上にあがり、2000人の聴衆を前に英語でスピーチをしたことです。

11014668_969213646457377_1940160447429095605_n事の発端は5年間一緒にWDSに通った同志である堀さんのところに、数か月前にWDSチームから来た「日本のコミュニティに檀上で数分間プレゼンをしてほしい」というメールでした。それを聞いた時から「せっかく区切りとなる5年目の参加なのだから、可能なら何か新しいことをやりたい」と思い、参加予定の友人たちと色々と案を巡らせていました。紆余曲折を経て私がメインで話をすることになり、日本を出発する数日前にスピーチを書き、スライドを作ってWDSチームに送り、空港に向かう電車や飛行機の中でインデックスカードを手に一人でブツブツと練習をする旅になりました。現地入りした後に、日本のコミュニティの仲間と一緒に登壇し、彼らが見守る中で私が話すという形式で行うことに話が落ち着き、土曜の午後の長い昼休みの間に舞台リハーサルを実施(写真は榊さんがリハーサル中に撮ってくれていたものです)。その時にポートランド入りしてから思いついたことをスピーチに入れたりしたこともあって、また頭の中でイメージトレーニングをしながら落ち着かない土曜の夜を過ごし、本番の日曜の朝を迎えました。

WDSのキーワードのひとつに「コミュニティ」がありますが、それは私のスピーチのテーマでもありました。私が去年まで住んでいたサンディエゴには大勢のWDS参加者がいて、素晴らしいコミュニティが出来上がっています。私も2012年のWDSの後にその存在を知ってグループの集まりに顔を出すようになり、毎回のように顔を出す中心のメンバーとは家族ぐるみでつきあうくらい仲良くなっていました。彼らのおかげで、サンディエゴでの最後の数年はそれまで以上に豊かになったのです。DSC07007サンディエゴのグループの結びつきが強い理由のひとつは、コアのメンバーがとてもいい人たちであること。そして常に誰かがイベントを企画していて、気が向けばいつでも、夢を語り合ったり励ましあったりする仲間と会うことができる・・・そんな彼らと出会えたこと、それだけでもWDSには感謝の気持ちでいっぱいで、それをスピーチで伝えたかったのです。そして、私も新たな場所でそんなコミュニティを作りたいし、聴いてくれているみんなにもそれぞれの場所で輪を広げてほしいということも。

DSC06992今回のWDSのためにポートランド入りしたのは、去年の9月に日本に移住してほぼ10か月経ったときでした。多くの友人と再会を喜び合ううちに、私はアメリカ生活12年の間に「友達との挨拶でハグをする」ことがすっかり当たり前になっていたということ、そして、それを日本では気兼ねなくできないのを実は寂しく感じていたということに、ポートランドに来てから初めて気が付いたのです。日本で準備していたスピーチの冒頭に「私と同じく今年5回目の参加者である堀さんが毎年WDSに来る理由は、WDS恒例のBollywood Danceをするためだ」という箇所を写真とともに入れていたのですが、このハグについても、日本では自然にできないことがここでは可能になることのもうひとつの例ではないかなと感じました。そこで「日本人は挨拶でハグをする習慣がないんだけど、アメリカ生活が長かった私にとってはハグするのは自然なことだから、相手が日本人でもハグしたいと思っていたんだよね。日本だとなかなか自分の殻を破ってやりたいことをするのが難しいけど、それを変えたいと思っている」という趣旨のことを言って、スピーチの途中で一緒に檀上にいる仲間とハグをさせてもらうことにしました。

hugs土曜日のリハーサルでは立ち位置やスライドの確認などだけで、実際にスピーチを行うことはしなかったので、このハグの部分も含めて、当日はほぼぶっつけ本番の状態でした。そのためもあって途中で次のスライドへのクリックを忘れていたり、時間切れで準備していたことの全ては言えなかったりと、完璧とはほど遠い出来でした。それでも、一番言いたかったことは伝わったのではないかな?と思っています。また堀さんの提案で、スピーチの締めくくりも会場のみんなに隣りの人とハグをしよう!と呼びかけて、会場全体が和やかな雰囲気になったところで終了になりました。

スピーチが終わった直後は、とにかく檀上で転ぶこともなく無事に終わったことの安堵感でいっぱいでした。そして覚えているのは、自分たちの番が来て舞台に出ていくときに、緊張よりも嬉しいという気持ちのほうが大きくて自然にニコニコするのを止められなかったこと。2000人もの聴衆を前にスピーチすること自体、初めての経験でしたが、前日の土曜日に次々と登壇するスピーカーの講演を聴きながら、WDSの参加者はとても前のめりな感じで登壇者の呼びかけによく反応しているな~と感じていたので、たとえ失敗してもきっと大丈夫だろうという気持ちもありました。実際に話し始めたときに目に飛び込んできた人々の顔はみんな優しく、好奇心に満ち溢れた表情をしていて、それにも勇気をもらいました。19046048924_88ed3e4b04_k

私たちの番が終わり、しばらくして休憩時間になったときに会場を歩いていたら、多くの人が「とてもよかったよ~」と声をかけてくれました。そして会う人、会う人 みんなが“Let me give you a hug”と言ってハグをしてくれ、最後には “Oh, you are the hug lady!”と言う人までいたりして、今までの人生の中でも最も多くの人とハグをした日だったかもしれません。また、ある参加者からは「君のスピーチよかったよ。隣に座っていた男性はイスラム教徒だったんだけど、檀上でハグする君たちを見て”I want to hug my people too”と言っていたんだよ」と教えてくれた時は、何とも言えない嬉しい気持ちになりました。

スピーチの中で話したことのひとつには、家族への感謝の気持ちもありました。出発前に留守の間のことを夫にいろいろ引き継いでいるとき、「もう5回目だし、これで最後のWDSかな~」と言ったら、夫はそれに対して「それは素晴らしい」。私の両親のサポートもあるとはいえ、言葉もそれほどできない異国の地で留守を任されて「子どもたちが病気になったら」とか「万が一事故にあったら」という緊急事態について夫がいろいろ考えを巡らせていたのを知っていたので、まぁ当然の反応かなと受けとめました。

でも、夫は少し経ってからこう言ったのです。

You know, I am not sure if your not going to this kind of thing is the best decision for our family. After all, you are just trying to be the best person you can be. Self-exploration is necessary for that.

「君はなれる中で一番の自分になろうとして、こういうのに参加しに行くわけだから、それに行かないことが家族にとって最善とは必ずしも言えないと思うよ」。出発前夜の彼のこの言葉には本当にびっくりし、その気持ちを本当にありがたいなぁと感謝するとともに、私も彼がやりたいことはできるだけサポートしたいと改めて感じました。DSC07009スピーチの中でも、WDSに来る理由の一つとして、職場での役職や、「妻」や「母」など、各人が持ついろいろな役割に沿った言動をとることを求められるプレッシャーが比較的強い日本から少し離れることで、Who am I?” つまり自分は何者なのか、ということをゆっくり考えたり、あるいは思い出させてくれる機会のひとつであることも話しました。

そしてWDSのすべての講演プログラムが終了して閉会になったとき、WDSチームから来年の方針について、2年目と同等の1000人規模に縮小するという発表がありました。すでにそのうち半分のチケットはWDS開催期間中に完売しており、残りは500枚。それを聞いた時、やはり今年が最後だったなと確信しました。幸運にも過去5回参加することができたので、まだ行ったことがない人に席を譲りたいという気持ちもありますし、これまでの経験でWDSのコミュニティとも強いつながりができたことと、ここ数年はメインステージでの講演はサミット終了後しばらくしてから動画が発表されているので、ポートランドに行かなくても『WDS的なもの』に物理的にも心理的にもいつでもアクセスができるということもありました。

堀さんもブログにこんなことを書いていますし、この経験から次に何を生み出していけるかを一緒に模索していきたいものです。また、2016年はWDSに行かない代わりに、自分の専門分野における見聞をさらに深めるための会議やワークショップなどに参加できればと思っています。例年どおりクロージングパーティでは踊り倒し、それも終わってしまった後には、親しい友達たちに「来年は戻ってこないけど、またどこかで会おう」と再会を期し別れを告げました。今までのサミットの思い出が交錯して、またもう当分は会わないかもしれない人々の顔が浮かんだりして、bitter sweetな幕切れでもありましたが、何か「やり切った」というような清々しい気持ちもありました。やはり最後は「ありがとう」という言葉で締めくくりたいと思います。
Thank you & until we meet again!19653483776_1420bf6789_k (images: Armosa Studios)

12年間のサンディエゴ生活が終わりました

家族で日本に移住してから一ヶ月が経ちました。私はサンディエゴには2002年の11月に移住したので、実に12年近くを過ごしたことになります。日本に住んでいるとは言っても、現在はまだ横須賀基地内のホテルに滞在しているので、日本の中のアメリカにいるような感じではあるのですが、この機会にここまでの経緯を振り返ってみました。

私は高校時代に1年間、AFS交換留学生としてドイツのホストファミリーにホームステイをしました。ちなみにAFSは高校生の交換留学の団体としては老舗で、本家アメリカのAFSは今年100周年、日本AFSも60周年を迎え、11月後半には記念の式典が行われます。1年後ドイツから帰国して高校に復学し、日本の大学に進学。卒業後はアメリカの大学院に留学しました。

アメリカ大学院留学中にJPO試験を受けて、奇遇にもドイツに本部がある国連ボランティア計画という組織で働くことになりました。2年ほどドイツで働いた後、今度は東京事務所に派遣され、そこで働いているときに現在の夫と出会い、国連を辞めてアメリカに移住するという決断をしました。

サンディエゴ滞在中にあったキャリア&家族に関する出来事としてはこんな感じです。

2002年11月~2003年8月 JICAコンサルタントとしてベトナムに計3ヶ月ほどの期間を勤務
2004年 サンディエゴの非営利団体 Family Violence Instituteで勤務
2005年 サンディエゴ補習授業校みなと学園の事務局長として勤務開始
2006年7月 長男出産
2007年11月 次男出産
2008年 RCB親子コミュニケーションコース講師の資格を取得。Your Infinite Life Coachingのコースに参加
2009年 ブログを書き始める。ライフコーチの資格を取得
2010年 みなと学園を退職。著書「国際結婚一年生」出版
2011年 国際結婚成功コンサルタントとして活動開始。6月に世界征服サミットに初参加
2012年2月 三男出産。8月から3ヶ月間、家族でハワイに住む
2013年2月 ポッドキャスト番組開始。夏休みに長男が日本の小学校で1ヶ月の体験入学
2014年9月 日本に移住

前述のように夫に出会う前にはアメリカ→ドイツ→日本と2年ごとに移住していて、日本での滞在も「これは一時的なこと」という意識が常にあったため、夫と結婚してサンディエゴに行くことになったときも「サンディエゴは3年から5年くらいで、そのあとまた次に行こう」ということを夫と話していたのです。サンディエゴに移住した頃は、国連は辞めたものの国際協力の仕事にはまだたっぷり未練があったので、友人からお話のあったJICAコンサルタントとしてベトナム勤務という機会をありがたくお受けして、サンディエゴからベトナムに5回ほど往復しました。その頃はまだ「サンディエゴの次はまた国際協力の仕事で途上国に住みたい」と思っていた覚えがあります。ベトナムでの勤務が終了した後、国際協力分野での仕事をサンディエゴで探したもののなかなか見つからず、学校運営の責任者という、それまでのキャリアが生かせる満足のいく仕事についたときには移住してから3年が経っていました。

面白いことに新しい仕事を始めた途端に長男を授かり、そこからはフルタイムのワーキングマザーで子育てという生活にどっぷり漬かることになりました。この頃には「次にもし家族で住むとしたら日本かな」と考え始めていたように思います。2009年には事務局長としての仕事は続けつつも、もし本当に国を移動するとしたら、それでもずっと続けられる仕事をしたいと考えるようになり、このブログを書き始めました。

サンディエゴでの生活はとても快適で、子どもたちもサンディエゴの学校に行き始めて友達も出来始め、コミュニティに根を下ろして生活していました。三男が生まれた頃には、一家で別の国に行くというのはなんだか遠い夢の話のような気がしていましたが、そんなときハワイに3ヶ月住むという機会があり、住んでいたアパートはそのままでハワイに引越ししました。まだ6ヶ月の三男を抱えて大変なこともありましたが、サンディエゴを離れて別の土地で暮らすというこの経験から「やってやれないことはない」と思うようになりました。そして2013年の7月に行った3度目の世界征服サミットに行った帰りの飛行機で「日本行きを1年以内に実現させる」と改めて決意し、それから1年は「20014年の8月に日本に移住すること」を目指して準備をしてきたのです。そして今年の6月に日本での仕事に応募していた夫にオファーがあり引越し準備を開始し、9月22日に日本に到着しました。

まだこれから家を決めて引越しをして、日本の学校に子どもたちを通わせるというステップが残っています。本当の意味での日本の生活を開始するまでには当分かかりそうですが、日本滞在も(当面は)期間限定という認識なので、その間にやりたいことをリストアップしているところです。「家族」「友人」「キャリア」「冒険・旅行」など、カテゴリ別に整理して優先順位をつけて・・・と、時間はかかるけれど楽しい作業をこれからしていきます。日本語はほぼビギナーの夫と子どもたちとの日本生活なので、その面のチャレンジがあることは覚悟の上ですが、このあたりもドキュメントしていきたいなぁと思っています。

赤ちゃんが車の中に・・

毎朝次男を学校に送っていくとき、普段は車を停めて、三男を乗せたバギーを押しながら学校まで一緒に歩いていくのですが、今日は夫が、私が普段運転している車を仕事の帰りに買い物用に使いたいということで、夫の車を私が使うことになりました。この車は2ドアしかないため、三男を乗せた赤ちゃん用カーシートを出し入れするのがちょっとやっかいです。たまに夫が次男を学校に送っていくときは、ドロップオフ・ゾーンで次男をおろして、残りは一人で歩かせるということだったので、次男に「今日はドロップオフしていい?」ということで了解を取り、学校の敷地に上っていく階段のすぐ横に車を停めました。

車の鍵をイグニッションに入れたまま車をおり、次男を車から降ろして助手席側にまわり、荷物をだして次男に渡しながら「じゃあね」と言っていたとき、次男が助手席のドアをばたん!と閉めました。気がついたら両側のドアはロックされた状態で閉まり、鍵は車の中。そして三男も・・・「しまった!」と思ったときには既に遅く、頭の中はパニックになりました。

普段こんな時はまずロードサービスに電話をするのですが、電話番号が入っている電話は車の中。夫の仕事先の番号も覚えていません。ちょうどそのとき、次男のクラスメートのお父さん(実はおじいちゃんだったことが後で判明)が通りかかり、事情を話して、学校のオフィスに行ってネットで番号を調べる間、車をみはっていてくれるように頼みました。とりあえず次男をクラスに送り届け、オフィスに走って到着。焦りながら事務所のスタッフに事情を説明すると、すぐにインターネットで調べ始めてくれたのですが、ちょうどそのとき書類を提出しにきていたあるお父さんが「赤ちゃんが車にいるんだって?」とさっと携帯電話を取り出しました。オフィスの人が調べてくれた電話番号を手にそのお父さんと車に向かいながらロードサービスに電話をかけようとしたところ、私の車と、中の赤ちゃんを見てそのお父さんが言うには「自分は消防士なんだ。消防署の仲間に自分が電話をすればすぐ来るし、ロードサービスより早いよ」。そしてさっさと電話をかけはじめました。

消防士のお父さんによると、車のキーロックで中の人が危険かもしれないという状況では消防車がよく出動しているのだそうです。また「消防士にとっても、車のドアをあけるいい訓練になる」と温かいお言葉。実は、鍵も電話も車の中だとわかったときに911番に電話しようか・・・と一瞬思ったのですが、いや車は日陰にとまっているし、ロードサービスもわりと素早いし・・とその考えを打ち消していたのでした。待っている間におしゃべりしていたら、パトカーが通りかかり「大丈夫ですか」と声をかけてきたり、他にも知り合いのお母さんが「どうしたの?」と声をかけてくれたり、この学校のコミュニティの結束の強さをしみじみと感じました。

待つこと5分で消防車が現れ、4人がかりで両側から作業開始。すぐにドアが開き、私はほっとして涙ぐみながらみんなにお礼と握手。手早く道具を片付けて消防士たちはさっそうと去っていきました。英語では警察官や消防士、救急隊員のことを“first responder”と言うのですが、今日は本当に彼らが頼もしく見えました。車を別のところに駐車して三男を連れてに学校のオフィスに寄ってお礼を言い、消防士のお父さんの名前と、連絡する手段を教えてもらいました。そのあとちょうど外での授業をしていた次男に無事に解決したことを伝えたら、「消防車が来たの!」と、その場にいなかったことが残念そうな口ぶりでした。

長いアメリカ生活の間では、近所の人との駐車場でのトラブルで警察を呼んだことはありましたが、消防署にヘルプを求める電話をしたことはなかった(こちらでは同じ911という番号ですが)ので、この状況で呼んでもいいのか決心がつかなかったのですが、たまたま通りかかったお父さんが消防士だったという幸運。これからもキーロックにはくれぐれも気をつけようという反省とともに、いざというときは恐れずに911番号にかけるべし、ということも学んだ出来事でした。

地域が支える野菜づくり

今年に入り、グリーン・スムージー30日間チャレンジや、ローフード(加熱しない生の食材)だけで3週間暮らしてみるチャレンジに挑戦してきました。今までのところ、睡眠時間はさほど変わらないのに朝すぐに起きられるようになったり、全体的に体調がよくなったという変化があり、食生活の大切さを改めて感じています。また私だけでなく、家族全体の食生活を見直すよいきっかけとなりました。

ローフード生活が終わるにあたって、これからCommunity Supported Agriculture (通称CSA)から野菜を購入してみることにしました。こちらのブログに詳しい説明がありますが、地域の人々で支える農業という仕組みで、申し込みをすると、有機栽培で作られた野菜や果物が定期的に送られてきたり、あるいは指定の場所でピックアップするシステムになっています。昨年12月に世界征服サミットのサンディエゴからの参加者の集まりに行ったところ、この”CSA”を利用している人が複数いて、このコンセプトを初めて知りました。その時は今ほど野菜の消費量がなかったのでそのままになりましたが、先週、長男の学校とある農場が提携してサービスを提供することになったとお知らせがあったのです。野菜や果物が入った箱は学校に届けられるので、子どもを迎えに行ったときに同時にピックアップできるというのも便利だな・・・と思い、早速申し込みました。新鮮な食材が使えたり、新しい野菜について学ぶきっかけになるほか、農場を訪れて実際に野菜を作る過程について知る機会もあるそうで、とても楽しみにしています。

サンディエゴで難民支援

先日、ジャパニーズ・ファミリー・サポートセンター(JFSC)のワークショップに初めて参加しました。テーマは「世界からの難民について知ろう!」。私の住むサンディエゴは全米でも受け入れている難民の数が最も多い都市であることを初めて知りました。スピーカーのうちのお一人、なおさんという方は、サンディエゴに移住したのちに最初はボランティアでビルマのカレン族という少数民族の支援を開始。そのうちにサポートする人の数が増えてきて、ついにはNPOを立ち上げてしまったというパワフルな女性です。

このワークショップには、実際に何年もビルマの難民キャンプで生活していたところ、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)のプログラムでアメリカに難民として移住するチャンスを得て、お母さんと二人でアメリカにやってきたという人が参加していました。まだアメリカに来て一年足らずなのに、立派に英語でプレゼンテーションをしていたり、堂々と質問に答えたりする様子からは、帰るところのない状況でアメリカに移民としてやってきた人特有のたくましさが感じられました。

なおさんの立ち上げたNPO、Karen Organization of San Diegoは、連邦政府の大きな助成金を勝ち取り、現在では専用のオフィスを構えて運営が行われています。カレン族の人々の支援には、日常のこまごまとした相談事から、働く先を見つけることまで、実にバラエティに富んだ業務が含まれているそうです。例えば、まだアメリカに来たばかりで英語がままならないとき、住んでいる家のドアから差し込まれたチラシなどが重要なものかどうかも判断がつきにくいときなどに、受け取った人々がそのチラシをもってオフィスに来るのだそうです。また、難民としてやってきた人々が、最終的な目標である経済的な自立を果たすことを支援するため、常日ごろ、カレン族の人々を雇ってくれそうな雇用主と関係を作り、何度も足を運んでは、一人でも多くの人を雇ってもらえるようにかけあったりというのも重要な職務だとなおさんは言っていました。

難民支援について学べたことはもちろん、なおさんのような方がサンディエゴで頑張っていることを知ることができて、とても有意義な時間となりました。今後、是非ポッドキャスト番組にもご出演いただけるとの快諾もいただきました。さらに踏み込んだお話を聴けることを、今から楽しみにしています。

ヨガの授業から訴訟問題に発展

こちらの記事に書いた「ヨガを学校の授業の一環として教えることは合衆国憲法に反するか」という問題について、きのうになって反対していたグループが訴訟に踏み切ったということが報道されていました。先日の記事を書いたあとに、日本でも柔道などの武道が体育の授業の一環として教えられている状況があり、保護者の反対があっても参加はほぼ強制という状況があるというコメントをいただきました。これをきっかけに、アメリカの場合を考えてみましたが、アメリカではホームスクールという選択肢も一般的になっているくらいなので、親がある授業への参加を認めない場合には、その授業を受けないというオプションもあるだろうことは予想がつきました。例えば、クラスで地域の動物園や消防署などを訪ねる遠足があった場合でも、親の許可を求める手紙があらかじめ配布され、親の許可サインがない場合は参加できないことになっています。

調べてみたところ、やはり予想通り、子どもをヨガの授業に出席させたくない場合は、ヨガの時間は同じ学年の他のクラスの授業に参加するなどの対応がとられています。ただ、訴訟の内容として、ヨガがそもそも“inherently religious”(本質的に宗教と関わっている)であるため、公立の学校で教えられるべきではないという主張に加え、 「(ヨガの授業に出ない子どもは)州で保証されているはずの最低限の体育の授業時間数にあたる教育が受けられない」。したがって、全校においてヨガの授業は廃止するべきだという主張もあるとのことでした。

これに対して教育区は「訴訟と言う事態になり非常に驚いている。保護者の理解を得るために最善の準備をしてきたし、今後もヨガのプログラムは続けるつもりだ」とのコメント。ともかく訴えられてしまったら法廷で争うための用意が必要になりますが、この問題の教育区があるエンシニータスという地域のカルチャーもあるのか、既にいくつかの法律事務所が「プロボノ(無料)で弁護を引き受けます」という意思表明をしているそうです。ヨガの授業に反対する署名は260に対し、賛成する署名は2700という数字が示すとおり、大多数の保護者はこのプログラムを支持している状況で、どのような決定がくだるのか、非常に興味を持っています。

ヨガを小学校で教えることは違憲?

先日訪れたMeditation Gardenのあるエンシニータスという町は、サンディエゴ郡の北部に位置しています。ビーチ・タウンでもあるこの町はパワースポットとも言われ、色々な宗教に基づく信仰のための建物や場所、または様々な種類の癒しを生業とする人々が多く住んでいます。年に何回かリメンバランス・コースが行われるのもこの町です。

このエンシニータスのEncinitas Union School Dirstirctという教育区の小学校において、学校の授業の一環としてヨガを教えるというプログラムが行われています。The K.P.Jois Foundationという団体から、学校でのヨガのプログラムのために$533,720を教育区に寄付があったのです。去年から既に一部の学校でプログラムが始まり、今年に入りこの教育区のすべての小学校でプログラムが始まることになっています。保護者には概ね好意的に受け入れられているこのヨガのプログラムですが、一部の保護者から「ヨガはヒンズー教を広めるものである」として反対する動きがあることがニュースになっていました。この保護者のグループはヨガのプログラムを中止しなければ教育区を訴えると明言しているようです。

私もサンディエゴやハワイにおいて、色々なタイプのヨガのクラスに出たことがあります。それぞれのヨガのクラスには独自のカラーがあり、例えばスポーツジムで行われるヨガのクラスの中にはストレッチや筋肉を鍛えることに重点がおかれているものがあれば、ヨガだけを教えているようなスタジオでは、よりスピリチュアルなことに重きがおかれているものもあります。ハワイで行っていたサンセット・ヨガでも、クラスの冒頭で必ずインストラクターから心の状態に目を向けるようにという言葉がありしました(『他人の成功を喜ぶこと』もそのひとつです)。また以前行っていたオーシャン・ビーチのナマステ・ヨガというスタジオでは、クラスの最初と最後はインストラクターの奏でる楽器にあわせてサンスクリット語の詩を唱えることになっていて、ヨガのルーツを強く感じさせる雰囲気がありました。

このように、ヨガと一言で言っても様々な種類のものがあり、またインストラクターによってどのくらい「スピリチュアル色」を出すかということも違ってきます。こうした保護者の心配に応えるべく、教育区は事前に保護者を招いた説明会も催したとのこと。また、学校で教えられるクラスは、マントラを唱えたり、胸の前で手を合わせて「ナマステ」のポーズをとるなど、少しでも宗教色があると解釈されるものは省いたプログラムになっています。前述のニュース記事の後半では、キンダーのヨガのクラスを見学した親が、自分の子どもを退室させたことが書かれています。この保護者は、太陽礼拝という一連のヨガのポーズを見て「キリスト教の教えでは主のみが礼賛されるべき。太陽礼拝はキリスト教の教えに反する」と感じたそうです。

記事ではまた、以前から、公立の学校において祈りが行われることの是非について議論が続いているけれども、憲法の専門家によると、実は法廷ではまだ「何をもって宗教とみなすか」ということが明確に定義されていないと書かれています。また法廷でヨガを宗教的な行為とする判決が下されることはおそらくないであろう、とも。この専門家は、今のアメリカにおいてはヨガは完全に市民権を得ており、多くの人は特定の宗教のことは頭にないであろうからという理由を挙げていました。

エンシニータスで、ヨガのプログラムが授業の一環として行われている学校にお子さんを通わせているお母さんと話をする機会がありましたが、「反対しているのは一部の保守的な(多くは)クリスチャンの家庭で、子どもにまで『ヨガは宗教的だから良くない』と教えている」とコメントしていました。何でも、反対している家庭の5歳のお子さんが、彼女のお子さんに向かって「ヨガをすることはキリスト教でなくヒンズー教を信仰することだ」と言ったのだそうです。宗教の自由を求めて国を離れた人々がアメリカ合衆国の始まりであることを考えると、少しでも自分たちの宗教が脅かされると感じると、それを除外しようとするこうした動きに出る人々がいるというのは、ある程度想定内のことかもしれません。アメリカ中でも、現在のところ授業の一環としてヨガが教えられているのはこの教育区だけ。教育委員長は「全米中の学校のモデルになれるように手を尽くす」と述べています。ヨガの心と体への効能を身をもって体験している私としては、ヨガは子どもたちにもポジティブな変化をもたらすものだし、学校の授業でやってくれたら楽だな・・・とは思いますが、これも宗教には寛容(あるいは無頓着)な日本人だからかもしれません。エンシニータスでの訴訟問題について、また追いかけてみたいと思います。

カウチ・サーファーの悩み

こちらの記事に書いたカウチ・サーファーのネイサンは、我が家に2週間ほど滞在した後、次のステイ先に向けて出発しました。この間に、世界征服サミット(World Domination Summit)のサンディエゴ在住の参加者によるミートアップがあり、今年の7月に向けての抱負を語り合ったりする機会もありました。我が家に滞在した2週間の様子は、こちらのネイサンのブログ記事にもまとめられています。

2年半ほど旅を続けているネイサンですが、今後について実は悩んでいました。ずっと旅行を続けたい気持ちと、一箇所に留まって、ひとつのプロジェクトにじっくり取り組んでみたり、あるいはそこで出会う人々との縁を育てたいという気持ちで揺れ動いているのです。彼自身もブログ記事“Living with Too Much Uncertainty and a Fear of Commitment”に書いていますが、ひとつのところに留まると、また旅に行くことがもうできなくなるのではないか、という恐れもあるようです。また「自分は、旅をしながらも食生活を含めた健康的なライフスタイルを続けることをテーマにブログも書いているのに、旅を続けなかったらそれができなくなる」とも考えていました。旅行して面白い体験をし続けなければ、誰も自分に興味を持たないだろう、とも。

ネイサンを送り届けたあとも、このことについて考えていました。自分のアイデンティティの一部となっているプロジェクトなりゴールなり属性などに終わりがきたとき、人は“identity crisis”に陥ることがあります。例えば私が国連職員という勤務先を辞めて、結婚のためアメリカに来た当初などは、まさにこの状態でした。それまで「国連という機関で働く自分」に価値を見出していた部分がまったくなくなってしまったのですから。そういった属性をとりはらったとき、多くの人は自分とは何か?この世で何ができるのか?人の役に立つことができるのか?自分のいる意味とは、あるいは価値とは?といった疑問の答えを求めてsoul searching をすることになります。ひとつ思うことは、私たちが本来持っている性質や人間性といったものが、次へのステップへと導いてくれるのではないか、ということです。ネイサンがこれから旅を続けるのか、それともここで一旦終わりにするのか。その答えを見出そうとして取る行動そのものにも、ネイサンらしさが現れているはずです。7月の世界征服サミットでの再会を期して別れを告げながら、それまで私もまた頑張ろうと気持ちを新たにした出会いでした。

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