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「深い思いやり」と「境界線」は対立する?

“Compassion”は日本語では「深い思いやり」「憐れみ」そして「共感共苦」などと訳されるようです。Compassion、つまり他人の苦しみに対して理解を示したり思いやりをもったりすること。この言葉と対比する考え方として引き合いに出されるのが“Boundary”という言葉です。文字通りでは「境界線」という意味ですが、人間関係においては「ここからここまではOK。ここから先は遠慮してもらいたい」という区切りのことを指します。

前回の記事で書いたペマ・チョドロンの本の中で、このcompassionとboundaryについて質問をした人がいました。彼女の説いている呼吸法や瞑想法では、他人(そして自分)の苦しみを少しでも理解し、心を開き続けることが目的のように言われていますが、そのこととboundaryはどういう関係にあるのか?具体的には、例えば自分を傷つける相手に対して、「傷つけられずにはいられないその人の苦しみ」に対してどこまで理解を示すべきなのか?自分のboundaryを侵されても理解を示すことを求められているのか?という趣旨です。

これに対して彼女はこう言っていました。「確かにそれは難しい問題です。そういった状況に置かれたときに自分のboundaryを尊重して、イエスかノーかをはっきりと言えるようになるには、この呼吸法以外のツールも必要になることでしょう」。ただ、と彼女は続けてあるエピソードを紹介しました。複雑な家庭環境で育ったある女性はずっと父親に殴られて育ってきました。大人になって男性と交際するようになってからも、どういうわけか自分を殴るような人ばかりを選んでしまいます。あるときに彼女と出会ったソーシャルワーカーが彼女のことを心から心配し、親身になって世話をした結果、そのとき交際していた男性と別れる決意を彼女にさせて別の町に引越しをさせ、ゼロからまた新しい生活を始める手伝いをしました。「そのとき、その暴力を受けていた女性は自分のboundaryを意識し、自分はその場から離れなければならないと決意したのです」とペマ・チョドロンは説明します。「でも、新しい町に行って一ヶ月もたたないうちに、また同じような相手との交際を始めてしまいました」。

つまり、物理的にその好ましくない場所から去ったり、人間関係を断ち切る形でboundaryを引いたと思っても、自らの内面と対峙して時には闇の部分に光を当てるというワークを同時に行っていかない限り、本質的には同じ問題が形を変えて何度でも起こることがある・・・・ということです。家庭内暴力の被害者には、加害者の行為に対する責任はありません。被害を受けている人の多くは、加害者と意味のある形でコミュニケーションをとる術をもたないばかりか、自分自身とも対話できないところまで追い込まれてしまっているでしょう。彼女はこう結んでいました。“You have to start where you are right now. There is no “later”. You have to learn how to relate to your messy areas of your life in a very compassionate way.”

自分の気持ちとも向き合えないほどに機能不全に陥った関係にある場合は、そこから物理的に離れることも必要です。ただ、そうしながらも、自分自身の気持ちに深い思いやりを持ってオープンでい続ける実践を重ねていくことが大事・・・ということでした。そしてboundaryを引くのにもcompassionを持ったやり方というのがあるはずです。このふたつは「あちらを立てればこちらが立たず」という相対する概念なのではなく、どちらも自分自身と、そして他人と親密な関係を無理なく築くためには必要なことなのでしょう。